ワインを楽しむうえで欠かすことのできない要素。香りは間違いなくその重要な要素の1つです。
ワインをグラスに注ぐ。いきなり口に含むことはせず、まずはグラスを鼻に近づけて立ち昇ってくる香りを楽しむ。時にはグラスを回してさらに香りの変化に集中する。そうしてからやっとワインを口に含んで味をみる。
この一連の流れはもはやワインを味わうときの儀式といってもいいかもしれません。
ワインには数百種類を超える種類の香りが含まれているといわれています。とんでもない量と思われるかもしれませんが、ヒトの嗅覚器官はその十倍、数千種類もの香りを識別できるといわれています。数字の上ではワインに含まれるすべての香りを見つけることも不可能ではありません。
それに対してワインを口に含んで感じる味の種類は基本的に5種類だけです。数百種類に対して5種類。ワインが香りのお酒であり、「儀式」を通してそれを余すところなく楽しもうとするのもうなずけます。
ところでワイングラスから立ち昇ってくる、この数百種類の香りはいったいどこからきているのでしょうか。
ワインはブドウから造られているお酒です。でもブドウを食べてみても、ブドウジュースを飲んでみても、ワイン程の複雑な香りを感じることはほとんどありません。
その理由は揮発性化合物と、その化合物がさらに別のものと結合して作っている、前駆体 (プレカーサー, precursor) と呼ばれる化合物にあります。
ワインの香りとその種類
ワインには数百種類の香りが含まれています。これらの香りはそのすべてが必ずしもブドウからきているわけではありません。ワインはブドウだけから造られるお酒ですが、樽香のように、そこに含まれる香りはブドウ以外からきている場合もあります。
ワインに含まれる香りはその香りが作られる時点ごとに2種類3区分に大別されています。それがアロマとブーケです。アロマには第1アロマと第2アロマがあり、ブドウに由来する香りは第1アロマに分類されます。
第2アロマには酵母や乳酸菌といった醸造工程中に活動する微生物に由来する香りが含まれ、樽由来の香りや熟成による香りなどはブーケとして区分されています。
少しわかりにくいかもしれませんが、ブドウに含まれている香りの成分がもとになった香りを第1アロマ、ブドウの糖分がもとになって作られた香りを第2アロマと呼んでいます。ブーケはそうしたブドウ由来のものが原料となっていない香りのことです。
上記の区分はJSAの用いている区分となります。WSETでは樽由来の香りは第2アロマに分類され、第3アロマとして熟成香を区分しています
第1アロマ、第2アロマ、もしくはブーケ。そのいずれも、さらにはワイン以外の場合であっても、香りの正体はすべて化学物質です。その香りがどのようなものであったとしても、すべて化合物として説明することができます。さらにいえば、ヒトが感じている香りは化合物の中でも低分子のものです。
匂いと揮発性化合物
ヒトが匂いとして感じるためには、それが第1アロマや第2アロマ、もしくはブーケであっても等しく気体 (ガス) になっている必要があります。嗅覚器官は立ち昇るガスをとらえて匂いを感じているのであって、液体や固体の匂いを直接嗅いでいるわけではありません。つまり、匂いの元になる化合物は揮発性でなければいけない、ということです。匂いの正体が低分子の化合物だとする理由も、分子量が小さい方が揮発しやすいからです。
匂いを持つ揮発性化合物の中にも、揮発しやすいものとしにくいものとがあります。一般に揮発しやすいものの方が空気中の濃度が高くなりやすいため感じやすくなります。
一方でその匂いを感じることが出来る最低濃度を示した閾値は化合物ごとに大きく異なっています。このため、いくら揮発性の高い物質だったとしてももともとの含有量が少ないなどの理由から感じられない場合もあります。また遺伝的に一定の割合で特定の揮発性化合物を感じられない人もいるため、仮に同じワインの匂いを嗅いでみても全員が等しく同じ匂いを感じているとは限りません。
化合物の揮発性には温度も大きく影響しています。温度が高い方が一般に化合物の揮発性は高くなりますが、多くの化合物が同時に揮発することで互いにマスクし合ってしまい逆に匂いが感じにくくなることもあります。
しかしどのような状況だったとしてもグラスから香りを感じられるということは、その香りは揮発性化合物 (揮発性有機化合物や揮発性炭化水素と呼ぶ場合もありますが、基本的にはすべて同じ意味です) としてワイン中に存在している、ということです。これに対して前駆体 (正確にはフレーヴァープレカーサー, flavor precursor, といいますが、この記事中では単に前駆体と記載します) は、揮発性化合物に重りのなる別の成分がつながっていることで揮発できない状態の化合物です。もう少し化学的に表現すると、別の化合物がさらに結合することで分子量が大きくなり、揮発性を持たなくなった状態の化合物のことです。
前駆体は係留された気球
気球を想像してみてください。風船でも構いません。その気球や風船には紐が結び付けられ、さらにその先には大きな石がつけられています。この石が重いため、気球や風船は飛び立つことが出来ず、その場に留まっています。
この状態の気球や風船が、前駆体です。
前駆体のなかの気球や風船に当たる部分が揮発性化合物です。揮発性を持っていますので、何らかの理由で石につながる紐が切れればそのまま空へと飛び立っていきます。逆に紐が切れない限りはガスになることはなく、ヒトがその匂いを感じることもありません。
紐を切る方法はその先につながった石の種類によって変わります。一番よくあるパターンが、糖が重りになっているケースです。小さくて軽い揮発性化合物である風船が、大きくて重い砂糖の袋に結び付けられているイメージです。
前駆体に多い配糖体
糖がくっついている化合物における紐のことを化学ではグリコシド結合と呼びます。グリコシド結合とは、炭水化物(糖)分子と別の有機化合物とが脱水縮合してつながった共有結合です。この結合をもった化合物のことを配糖体、もしくはグリコシドといいます。前駆体のことです。
グリコシド結合をもった配糖体を分解して糖と揮発性化合物に分けることは比較的簡単です。グリコシダーゼ (glycosidase) と呼ばれる酵素を使えば紐を切ることが出来ます。ワイン造りの現場では酵母がこの酵素を持っているため、特に特別なことをしなくてもアルコール発酵中にグリコシド結合が加水分解され、前駆体として果汁中に含まれていた成分が揮発性化合物として遊離します。つまりガスとなって飛び立って、ヒトが匂いとして感じられるようになります。
ブドウに含まれる香りの前駆体にはグリコシド結合をもった配糖体が多く存在していますが、すべてではありません。その代表例の1つが、チオール系の前駆体です。
グリコシドだけではない前駆体
Sauvignon blancでは揮発性チオール化合物が品種特徴香として非常に大きな役目を果たしていることがわかっています。なかでも重要な化合物が、4-mercapto-4-methylpentan-2-one (4MMP)と3-mercaptohexan-1-ol (3MH)ですが、これらはいずれも前駆体としてのみ果汁中に存在しています。Sauvignon blancのブドウをそのまま食べてみたり、ジュースにして飲んでみても香りはほとんどありません。
これらのチオール系前駆体は糖とグリコシド結合した配糖体ではなく、S-cysteine conjugateと呼ばれる構造体として果汁中に存在しています。配糖体ではないためグリコシダーゼでは結合を切ることができませんが、同じく酵母が持つβ-lyaseという酵素を使うことで切断することが出来ます。
グリコシド結合をもった前駆体とチオール系の前駆体とではそこから揮発性化合物が遊離するために起きている化学的な反応は全くの別物ですが、どちらもアルコール発酵を行うことで感じられなかった香りが感じられるようになるのは同じです。どちらの場合でも酵母が持つ酵素が影響するために、発酵という工程をする前後で感じられる香りが全く変わるのです。一方でどれだけ効率的に前駆体を分解できるかは酵母の種類によって大きな違いがあります。
なお、チオール系前駆体を分解するための酵素であるβ-lyaseはビタミンB6が補酵素となることが出来ます。よく熟したSauvignon blancのブドウを口に含み、しばらく果汁を口中に置いておくと途端にSauvignon blancのワインに感じる香りを感じられるようになるのはこれが原因です。口の中で前駆体が分解されることで、チオール化合物が揮発性を持つようになるのです。
ブドウのアロマティック品種を決めるテルペン化合物
ワイン用のブドウ品種は時として、アロマティック品種とそうではない品種とに分けられることがあります。さら場合によってはアロマティック品種以外をノン・アロマティック品種と中立品種に分けている場合もあります。この区分を決めているのが、果汁中に含まれるテルペン化合物類の量です。
果汁1リットル中に含まれるテルペン化合物類の量が6 mg以上の品種をアロマティック品種、1 ~ 4 mgの品種をノン・アロマティック品種、1 mg以下の品種を中立品種といっています。
テルペン化合物の持つ香りはマスカット香が典型的です。テルペン化合物類の一部はモノテルペンと呼ばれる非常に分子量が小さく揮発しやすい状態でブドウ果汁中に存在しています。前駆体ではないため、この揮発性化合物が含まれているブドウではワインにする前から同じ香りがします。
アロマティック品種とはテルペン化合物類の含有量が多く同じ第1アロマでも発酵を経ずに強い香りを持つ品種のことで、その代表であるマスカットをとってマスカット系品種、ノン・アロマティック品種をノン・マスカット系品種、と呼ぶ場合もあります。例えばRieslingはアロマティック品種に分類されているため時にマスカット系品種と呼ばれますが、ブドウの品種としてはマスカットとのつながりはありません。
Rieslingに特徴的な香りを考える | モノテルペンとノルイソプレノイド
前駆体としても存在するテルペン化合物
テルペン香 = マスカット香と思ってしまうと勘違いしやすいですが、テルペン化合物もその他の揮発性化合物と同様に前駆体としても存在しています。多いのはテルペングリコシドと呼ばれる配糖体ですが、モノテルペンの状態に糖が結合した配糖体も存在します。
テルペン (terpene) とは炭素数5のイソプレン (isoprene) を基礎単位とした化合物で、結合したイソプレンの数によって名前や特徴が変わります。モノテルペンは炭素数10、イソプレンが2単位結合したものでメントールやゲラニオールといった香料がこれに当たります。テルペン類のなかで官能基のついた誘導体はテルペノイド (terpenoid) やイソプレノイド (isoprenoid) と呼ばれますが、ビタミンAなどもこのテルペノイドの1種です。つまり、テルペン化合物 = マスカット香というわけでは必ずしもありませんし、テルペン化合物 = 前駆体ではない揮発性化合物というわけでもありません。
なおブドウに含まれる配糖体型の前駆体はテルペン類以外にも複数存在しており、その数は200種類以上とされています。
当サイトではサイトの応援機能をご用意させていただいています。この記事が役に立った、よかった、と思っていただけたらぜひ文末のボタンからサポートをお願いします。皆様からいただいたお気持ちは、サイトの運営やより良い記事を書くために活用させていただきます。
今回のまとめ | どうやってブドウの香りを十分にワインに引き出すか
ほとんどのワイン用ブドウ品種では香りの成分は前駆体として存在しています。前駆体の多くは酵素による分解を必要とするため、熱などによる影響を受けにくい特徴があります。アルコール発酵前の加熱抽出などはこの特徴を利用した醸造技術です。
一方で加熱抽出や長時間のマセレーションなどによって果汁中に多くの前駆体を取り出してきたとしても、それだけではほとんど意味はありません。前駆体は分解されてはじめて香るようになるからです。
果汁中に多く取り出してきた前駆体を効率よく、かつ余すことなくワインの香りとして取り出すためにはそれに見合った量と種類の酵素が必要になります。そうした酵素を狙って得るためには原則として酵母の選択が欠かせません。酵母によってはほとんどグリコシダーゼ活性を持たない株も存在しているからです。
一方でこうした必要性は乾燥酵母の使用を避ける昨今の動きとは対極にあります。野生酵母での発酵に拘ったワインで前駆体から得られる品種の特徴香が弱く感じる場合などは、動いた酵母の株が必要となる酵素を持たない株だった可能性が高いと考えられます。
ワインをどこまで香らせたいか。この判断はブドウ中に存在する前駆体の抽出から始まり、その前駆体をどれだけ分解するのかという醸造面での対応方法に広くかつ直接影響します。どのブドウ品種がどういった香りの成分をどのような状態で多く持っているのかを知っておくことも重要です。
そうはいっても一度遊離してワイン中に存在するようになった揮発性化合物の量を好みに合わせて調整することは簡単ではありません。一部の化合物では前駆体から遊離しても、その後早急に分解してしまいワイン中に残存しないものもあります。
ワイン全体の香りをどうデザインして、それをどう実現するのか。どこが十分といえる範囲なのか。造り手には難しい判断が求められます。