楽しみにしていたワインのボトルを開けて、グラスに注ぐ。そこから立ち上るかぐわしい香りを嗅ごうと鼻を近づけると、何かが違う。
こんな経験をお持ちの方は意外と多いと思います。
本来はしないはずの、特に不快に感じる臭いがするワインを欠陥臭 (オフフレーバー) を持つワインといいます。ワインのオフフレーバーにはいくつも種類がありますが、中でも有名なのものの1つがブレット (Brett) です。ブレットは馬小屋の臭い、馬の汗の臭い、動物的な臭い、などと表現される欠陥臭で、赤ワインで特に感じる機会が多いのが特徴です。
ワインを楽しんでいくうえで、いつかは出会ってしまう存在。今回はそんなブレットをもたらすワイン界の厄介者についてです。
ブレットは酵母によって引き起こされる
ブレットはブレタノマイセス (Brettanomyces bruxellensis, ブレタノミセスとも) という名前の酵母によって引き起こされる、原因が明確になっているオフフレーバーです。
ワインの世界ではブレタノマイセスの名前が有名ですが、この酵母はDekkera bruxellensisとも呼ばれます。少し細かい話になりますが、この名前の違いは酵母が増殖していく際の方法の違いによって使い分けられています。Dekkeraは胞子嚢を形成することで増殖する形態を、Brettanomyces bruxellensisは有性生殖をおこなわずに分裂によってのみ増殖していく形態を指しています。
ブレタノマイセスが問題となりやすいワインやシェリーの製造現場ではこの酵母が増殖をするための環境条件が悪く、有性生殖をできるほどの余裕を持てないためにDekkera株としてではなく、Brettanomyces株として増殖をしていくことが多いために主にブレタノマイセスとして知られるようになりました。
ちなみにブレット (Brett) という名前は、原因であるブレタノマイセス ("Brett"anomyces) の名前の最初の部分からつけられています。一般的にブレットという名称はブレタノマイセスによって引き起こされる欠陥臭のことを意味しており、ブレタノマイセスという酵母のことをブレットと呼ぶことはありません。
前述の通り、ブレタノマイセスは酵母です。
酵母といえばブドウの果汁がワインになるときのアルコール発酵に重要な役割を果たす酵母を思い浮かべる方が多いと思います。ブレタノマイセスもまさにその酵母です。ただ、一般にアルコール発酵に使うのとは別の種類の酵母です。
ワインやビール、日本酒の発酵ではSaccaromyces cerevisiaeという種類の酵母を使います。
言ってみれば、人類という括りの中に白人種もいれば、黒人種、黄色人種もいるのと同じです。基本的にそこまで大きな違いはないけれど、種類によって好んで食べる食事の種類とか量、もしくは運動能力などにちょっとした違いがある、そんなイメージです。
ブレタノマイセスもアルコールを作り出すことは可能ですが、多くの株ではSaccaromyces cerevisiae種よりも生産能力が低いことがわかっています。またブレタノマイセスによるアルコール生産はデメリットがメリットをはるかに上回るために一般には行われていません。
なぜブレタノマイセスはワイン製造に利用されないのか
ブレタノマイセスの持つ特徴を列挙すると、主に以下のようなものになります。
- 比較的低い発酵能力
- 広範な糖の代謝能力と低い需要量
- アルコール耐性
- 酢酸及びエステルの生成
- 望ましくない発酵副産物の生成
- 産膜性
ワインの製造現場において酵母に望まれる役割は明確です。
酵母に期待される役割は、「アルコールを効率よく作り出すこと」と「望まない香りを出さないこと」。極論してしまえばこの2つだけです。この条件をブレタノマイセスの特性と比較してみると、この酵母がワイン造りで必要とされない理由がわかります。
発酵能力とはここではアルコールの生成能力のことを指しています。ブレタノマイセスのアルコール生成能力が一般的なワイン酵母として知られるSaccaromyces cerevisiae種と比較して相対的に低いことはすでに書いた通りです。つまり、ブレタノマイセスを使ってアルコールを作っていくことは単純に効率が悪いのです。
さらにブレタノマイセスはブレットの原因でもある酢酸やエステル類をその代謝過程で生成します。これは「望ましくない香りの生成」そのものです。
ブレットは時として低濃度であればワインにポジティブな影響を与える要素としてとらえられることもありますが、ブレットと同じくブレタノマイセスが原因となって発生するネズミ臭は明確な欠陥臭として扱われています。アルコール生産上の効率が悪いのに、さらに欠陥臭の原因となる。この点からブレタノマイセスをワイン造りに用いることは通常、ないのです。
ブレタノマイセスはどこから来るのか
ブレタノマイセスはよく、ワインの発酵や熟成を行うオーク樽に棲みついているといわれます。そのために樽をよく使う赤ワインでブレットが発生することが多い、というのはよく知られた説明です。ではこの樽に棲みついたブレタノマイセスはそもそもどこから来たのでしょうか。
ブレタノマイセスもほかの酵母と同じように、自然界に一般的に存在している酵母です。暖かい地域のほうが生息数が多いといわれていますが、だからといって冷涼地域に生息していないわけではありません。
そしてブレタノマイセスもほかの野生酵母と同様に、ブドウの果皮表面に付着したり、昆虫を介して果肉中に混入してワイナリーにやってきます。
発酵の期間中は乾燥酵母が添加されたり、そうではなくてもより発酵能力の高い酵母が支配的になるためブレタノマイセスがワインを汚染するレベルまで優勢になることは稀です。しかしだからといってブレタノマイセスが死滅するわけでもありません。ブレタノマイセスは発酵中、そして発酵後も細々とワインの中で生き続けています。
こうしてブレタノマイセスが生きたままのワインがオーク樽に入れられた結果、ワインから樽にブレタノマイセスが"感染"し、その後継続的にその樽に入れられたワインを汚染するのです。
ここで厄介なのが、ブレタノマイセスに汚染された樽はワインが入ったことのある樽に限らない、という点です。
すでに書いてきたようにブレタノマイセスは自然界に一般に存在している常在菌です。そのためにこの酵母が付着する先はブドウの果皮に限らないのです。
オーク樽などの樽の原料となる木材は伐採後、数年間にわたって乾燥のために保管されます。この際におかれている場所は多くの場合、屋外です。つまり木材の保管中にブレタノマイセスが付着する可能性があるのです。
こうした木材から作られた樽では出荷直後の未使用の状態ですでにブレタノマイセスによる汚染がされている場合があります。このような汚染された樽にワインを入れてしまった場合にもワインでブレットが生じる可能性があることが指摘されています。
なお、ワイン中に存在するブレタノマイセスを死滅させたり除去したりすることは比較的簡単です。一方で、木樽を汚染してしまったブレタノマイセスを完全に除去することはほぼ不可能です。
ここはよく誤解される部分でもありますが、ワインにブレタノマイセスが存在するからブレットになっているのではありません。ワイン中、もしくはワインが触れた部分に存在するブレタノマイセスが代謝を行った結果、ブレットが生じます。つまり、仮にワイン中にブレタノマイセスが存在していても十分な代謝を行っていないうちに失活させるなり除去するなりしてしまえばワインに被害が出ることはありません。
ブドウの果皮に付着して醸造所内に入ってきたようなケースであれば、こうした被害が拡大する前の対処が可能です。一方で、樽のようにその中で長期間ワインを保管する場所が汚染されてしまっている場合にはこうした対処が途端に難しくなります。だからこそ、樽の汚染が厄介なのです。
ブレタノマイセスをめぐる誤解の数々
ブレタノマイセスはワインの世界ではその名前を広く知られた存在であるにもかかわらず、意外なまでに多くの誤解がされています。その中の1つがブレタノマイセスが発酵中に生じる何がしかの菌で、ブレットはその菌によってもたらされる腐敗だというものです。
すでに見てきたようにブレタノマイセスは酵母です。酵母という存在は微生物の1種ですので、発酵のプロセスで"生じる"ようなことはありません。この点において、ブレタノマイセスはワイン造りのプロセスにおける混入物であり、ブレットはそうしたコンタミネーションの結果だといえます。
またブレタノマイセスは赤ワイン中にしか存在せず、よって白ワインでブレットが出ることはない、としているケースもあります。これも誤解です。
ブレタノマイセスは生存能力が高く、赤ワイン中だろうが白ワイン中だろうが関係なく存在します。ブドウ畑で付着するときにも、それが白ブドウか黒ブドウかを選ぶようなことはありません。
単にもともとのワインのpH値や酸化防止剤とか亜硫酸とも呼ばれる二酸化硫黄 (SO2) を添加するタイミング、管理温度、木樽を使う頻度の違いなどを理由に赤ワイン中で見られやすいというだけです。ブレットの原因となる代謝はブドウに一般的に含まれている種類の酸から始まります。この酸は白ブドウでも黒ブドウでも変わらずに含まれているものですので、そこから生成されるブレットも赤ワインにだけ出て白ワインには出ない、ということはありません。
ブレタノマイセスにどう対処するか
ブレタノマイセスによる被害は多くの場合、「汚染」と表現されます。この表現の通り、ブレタノマイセスへの対処で大事なのが衛生管理です。
ブレタノマイセスの抑制に効果的なのは二酸化硫黄の使用です。またワインのフィルタリングを通して比較的容易に除去することができます。逆に言えば、昨今流行っている自然派ワインの一部に見られるようなノンフィルターでSO2無添加のワインなどでは汚染のリスクが高くなり、かつ醸造所内だけではなくボトリング後のボトルの中でもブレタノマイセスの繁殖とさらなるブレット汚染が生じる可能性があります。
予防面からは汚染された樽の速やかな使用中止と廃棄に加え、無制限に意図的な繁殖を行わないことも重要です。
今回のまとめ | ポジティブにブレットを使うには覚悟が必要
ブレタノマイセスは多くの人が想像しているよりもはるかに広がりやすい汚染です。被害がそこまで大きくならないのは、日常的な洗浄行動などによってその拡大が抑制されているからにほかなりません。
一方で日常的な洗浄行動をブレタノマイセスの予防と意識しながら行っているケースはそれほど多くないのが実情です。そうしたケースにおいては、ブレタノマイセスの予防ができていたのは単に幸運だっただけとも言えます。これはワインの濾過や亜硫酸の使用の有無にも言えることです。
今までは意識しないところでたまたまできていたことは、ほんの少し行動を変えただけで出来なくなります。これは極めて大きなリスクです。
そうしたなかで、ワインに個性を持たせたい、ほかのワインと違いを出したいとの考えからブレットをポジティブに利用していこうという動きがあります。ポジティブにブレットを利用するためには意図的にブレタノマイセスを醸造所内に持ち込み、増殖させる必要があります。そうした試験を行うことは自由ですが、その後の影響の範囲は大抵の人が予想しているよりも余程大きくなる可能性が高いことは多くの場合、考えられていません。
ブレタノマイセスの生態をきちんと知らずにこうしたことに手を出すと、望まない範囲に汚染を招きます。そしてそうした汚染の結果のワインが市場に流れるとそれを手にした消費者の意識上にも"汚染"の範囲は及びます。
仮にブレタノマイセスと一緒に遊びたいのであれば、相応の覚悟と準備をもって望まなければなりません。なに1つの方法論もなく手を出すことは単に自分の首を絞めるだけで何も利益をもたらさないことを知っておく必要があります。
ブレタノマイセスに関するさらに詳しい内容やこの酵母との「遊び方」の可能性についてはオンラインサークル「醸造家の視ている世界を覗く部」でメンバー限定記事を公開する予定です。限定記事の一部再編集版はnote上でも公開していますので、ご興味ある方はそちらも併せてご覧ください。
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