ナチュラルワイン

ナチュラルワインの定義とそこに見る意味

03/29/2020

先日、フランスでナチュラルワイン、いわゆる自然派ワインとかナチュールと呼ばれている種類のワインが具体的にどういうものであるべきかの定義が公式に決まった、という報道がありました。

こちらのサイトでもナチュラルワインをテーマにするたびに公式の定義がなく不安定な枠組みの中にあるものだ、という点に触れてきましたが、今回の一件はその不安定さが解消される第一歩になる可能性があります。一方で今回採用された定義は実際にはそれほど目新しい内容というわけではなく、大勢に影響するほどのものとも思えない部分があります。

今回はこの新しく採用された定義の内容を確認しつつ、その意義について考えていきたいと思います。

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ナチュラルワインの新定義と従来の定義の比較

今回の報道によれば、フランスで認められたナチュラルワインの定義は以下のような内容になります。実際には名称やロゴの使用などについての規定もありますが、ここでは醸造に関わる内容のみにフォーカスしています。

仏語の原本英文を確認したい方はそれぞれのサイトをご覧ください。

今回採択されている手法は以下のようなものでした。

ナチュラルワインの新定義

  1. 有機認証を受けている畑のブドウを100%使用していること
  2. 手収穫であること
  3. 野生酵母による発酵であること
  4. 添加物が不使用であること
  5. ブドウ品質の加工は禁止
  6. ろ過、クロスフィルター、瞬間殺菌、サーモヴィニフィケーション、逆浸透膜等の物理的な醸造技術の使用を禁止
  7. 発酵開始前及び発酵中の亜硫酸添加を禁止。ボトリング前の亜硫酸の添加はワインの種類に関わらず30 mg/l まで可能 (添加を行っている場合はエチケット上への記載義務および使用可能なロゴの変更を伴う)

第5項の記載は何を指しているのか具体的には不明ですが、おそらく人為的な凍結・蒸発等による糖度の引き上げなどを禁止しているのだと思われます。

第6項および第7項に関しては今回の情報を掲載しているサイトによっては「ろ過」の文言が抜けてクロスフィルターのみの表記であったり、「ボトリング後の総亜硫酸量が30 mg/l 以下であること」といった記載になっていることがありました。どちらでも大きな差はないように思われるかもしれませんが、醸造面から見ればこれは無視できない大きな違いですので、ここで敢えて強調をしておきます。

実はこれまで無秩序に動いていたように思われていた自然派ワイン造りですが、ある程度しっかりとした生産者の方々に最低限度満足しなければならないラインとして参考にされていたものがあります。それが、ビオワインの醸造規定です。

ビオワインにはすでに公的に求められているルールがあります。いわゆるナチュラルワインの生産者の方々の中にもいろいろな方がいらっしゃり、単に自分の考える「自然派」を盲目的に追及された方もいらっしゃれば、ある程度のガイドラインは持とうとする方々もいらっしゃいます。これはそういったガイドラインを持とうとする方々の参考になっていたものです。

なお、このビオワインに関するルールは2012年に施行されたものになります。この法令は比較的頻繁に変更されているため、もしかしたら2020年現在では一部変わっているかもしれない点にご注意ください。

ビオワインの公的規定

  1. ビオ認証を取得していること
  2. 冷凍凝縮の禁止
  3. 電気的・物理的な各種加工の禁止 (アルコール度数の引き下げ、亜硫酸量の引き下げ、酒石酸の除去、イオン交換)
  4. 70度以上の加温処理の禁止
  5. 0.2μm以上の孔口径のフィルターを用いたろ過の禁止 (ろ過自体の実施は許可)
  6. 補糖はビオ認証のある砂糖を使う限りにおいて許可
  7. 一部のものに関しては添加物も使用可
  8. 亜硫酸の添加は残糖量が2 g/l 以下の場合、 赤ワインで100 mg/l、白ワインで150 mg/l まで可。上記以外のワインについてはいずれも通常の規定における上限値よりも 30mg/l 低い値を上限とする

※ 加温処理等の一部の手法に関しては規定作成時にまだ議論の俎上にあり、期間を限定して利用が許可されているものがあります

ざっと見比べていただくとかなりのところで具体的な数値はともかく前掲のナチュラルワインの規格と似通っていることがお判りいただけるかと思います。

確かに一部で使用が可能であったり、量が多かったりと「緩さ」は見られますが、もともとナチュラルワインを志す生産者たちはベンチマークとなったこのビオワインの規定に満足できず、さらに厳しい自主規制の下でワイン造りをされていた方たちです。ですので、当然のように従来の取り組みがすでにこの規定よりも厳しいものとなっていました。

私が今回の定義の制定は特に真新しことはない、と書いたのはこのような背景に基づきます。

もっとも今回の定義の制定自体がどちらかというと従来の動きの中で内々に作られていたガイドラインを公的に認めた、という位置づけのもののようですので、それもある意味で当然かとは思います。

ですので、今回の定義制定の「公的な」意味は、こうしたガイドラインを無視して独立独歩で好き勝手やっていた方々を排除することにあると私は考えています。

醸造的な視点から考える新定義

今回の定義制定の動きがもたらすセールスマーケティング的な意味は上記の通りでいいので、ここからは醸造的な意味について考えてみたいと思います。

これは従来からのナチュラルワインの醸造を考えることと本質的には大差はないのですが、改めて明文化され、誤魔化しがきかなくなったという意味で意味があります。

今回の定義付けられたうちで、醸造的に極めて大きな意味をもつ項目は以下の二つです。

ろ過の禁止

亜硫酸添加上限の設定

繰り返しになりますが、これらは以前から自然派ワイン造りの現場では行われていたことであり、真新しさが無いように思えるかもしれません。しかし、実際には規定がない中での自主的な動きとして、自然派、ナチュラルワインと謳いながらも品質を守るために軽いフィルターを通したり適量と判断される亜硫酸を添加していた醸造家はいたのです。

これがルールが明文化されたことにより公式に禁止されることの影響が大きいと私は考えます。特に亜硫酸量についてはインパクトが大きいので、この30 mg/lという量がどういうものなのか詳しく説明したいと思います。

SO₂ 30 mg/l の意味

今回採用されたナチュラルワインの規定と従来から存在していたビオワインの規定との間でも、許可される亜硫酸量の違いが非常に大きいことはすでに見ていただいた通りです。

ビオワインの場合は少ない場合でも100 mg/l の添加を認めていますが、ナチュラルワインではこれが 30 mg/l、つまり3分の1以下となります。

これまでにも書いてきましたが、ワインに含まれる亜硫酸というものの量は2種類に分けて考えられます。遊離型SO₂と結合型SO₂です。

総亜硫酸量とはこの両者の合計になりますので、仮に総亜硫酸量が30 mg/l で結合型SO₂が30 mg/l あれば、遊離型SO₂は一切残っていない、0 mg/l ということです。

SO₂は入っていればいいというものではなく、遊離型の形でワイン中に存在していることに意味があります。これは結合型になってしまうと亜硫酸を添加する目的である微生物の失活や酸化防止といった機能がなくなってしまうためです。

ここで大事なのは、我々醸造家は多くの場合においてボトリング時点で遊離型のSO₂が”最低” 30 mg/l 程度になるように調整して亜硫酸を添加している、ということです。つまりナチュラルワインの規則が求めている30 mg/l というのは仮に全量が当面遊離型で保たれたとしても、それだけでギリギリのラインにあります。

ギリギリならばまだいいのじゃないか、と思われるかもしれませんが、醸造の現場では亜硫酸を添加した端からすべて結合型に移行してしまうようなことは日常茶飯事です。ですので、我々は30 mg/l の遊離型SO₂を確保するために多くの場合、1.5倍から2倍のSO₂を添加します。だからこそ、ビオワインでは残糖量が少なく、比較的安定していると思われる辛口のワインであっても100 mg/l 程度の量のSO₂添加を認めているのです。

これはつまり、そうしないとワインの品質が維持できないと考えている、ということでもあります。

30 mg/l のSO₂の添加というのは無駄とは言わないまでも、本来SO₂に期待する役割から見ればあまりに無力なのです。

今回の規定は幸いなことにボトリング後の総亜硫酸量として30 mg/lを規定しているのではなく、ボトリング前にここを上限に添加することを許可しています。もしこれがボトリング後の総亜硫酸量としてこの数値が上限にされていたらと思うと悲惨です。

というのも、ワインの発酵中には酵母がアミノ酸を起点に亜硫酸を生産します。しかも酵母を選択できない野生酵母による発酵ではさらにその割合は増加する傾向となります。つまり、全く亜硫酸を添加していないにも関わらず、スタートの時点ですでにある程度の量のSO₂がワインの中に存在しているのです。

このスタート時点での量に上乗せしてさらに30 mg/l という量を添加できるのか、あくまでもこのスタートの時点での量と合計してボトリング後に総亜硫酸量として30 mg/l を要求されるのかはワインの品質を考えるときに非常に大きな違いとなります。

思想は品質を保証しない

ここまで、自然派ワインというものに新しく与えられた定義とその意味するところを見てきました。確かに今まで漠然としていたものに一定の形を与えることには意味があります。

しかし一方で、ワインを造っている立場からするとこのことに意味があるとはあまり考えていません。

なぜなら、思想は品質を保証しないからです。

自然派ワイン造りというものはその大部分を占めているのは思想です。今回の定義にしても、本当の意味で「品質」を意識したものとは少なくとも筆者は思いません。これはむしろ逆で、今までそれでも「品質」を意識してきた一部のナチュラルワイン生産者の手足を縛りつけてしまう結果になったとさえ考えています。

逆浸透膜を使わないのも、加熱処理をしないのも、野生酵母に拘るのも、ヒトの手を介在させることを嫌い、「ナチュラル」であることに拘った結果です。

今回の定義付けはこの思想を追うこと優先する、そしてそれを「品質」とする、と宣言したことに他なりません。これによって、「自分が正義と信じる思想を追うこと」が「品質の追及」と同意になってしまうことになりました。

今回の公式なナチュラルワインの定義付けの報道を巡り、いろいろな意見が散見されましたが、そんな中には今回の決定により「緩い」自然派がいなくなる、とするものがありました。確かにそうかもしれませんが、実体はそれ以上に信頼できる自然派がいなくなる、だと私は思うのです。

思想を優先するのか、品質を優先するのか

ここからは少し思想的なお話です。

ある思想を優先するということは、今回の場合などは顕著ですが、手段が制限されるということでもあります。いわゆる、「縛りプレイ」というやつです。

ある同じ目的に向かって進んでいく際に、敢えて制限を多くして方向性を決めていくことに等しいと言えます。

もちろん、そういった回り道のすべてが悪いわけではありません。

仮に同じ効果をもった化学薬品と有機材料があったとします。化学薬品の場合は1月に1度使用すれば望んだ効果が得られるのに対して、有機材料の方は1月に5回使用しなければ同じ効果は得られなかったとします。

この両者は有機材料の方が5倍手間はかかるけれど、得られる効果は100%同じだとしましょう。

このケースでは化学薬品を使った方が圧倒的に簡単でコストは抑えられますが、有機材料を使った方が周辺環境に対してもいい影響を与えられるというメリットが増えるという判断のもと、有機材料を使うことはあります。得られる結果、つまり求めている品質が100%保証されるからです。

一方で、同じ条件でも有機材料を使ったらいくら頑張っても成果は最大で60%しか得られない、となったらどうでしょうか?

ここが思想を追う人と品質を追う人とで判断が分かれるターニングポイントです。

思想を追う人は成果に関わらず、つまり得られる品質の高低に関わらず、自らの思想に基づいた選択肢を選びます。これが有機材料しか使わないという思想であれば、自ら品質を高める可能性を否定し、取れる手段を制限して低品質を受け入れざるを得ません。

この人にとっての「成果」とは「品質」ではなく「思想」なのですから、ある意味で当然の選択です。

一方で、品質を追求する立場の人であれば、品質を上げるために必要となる手段があるのであれば迷わずそちらを選びます。手段のために本来の目的である品質が落ちるということを受け入れることはしないのです。前述のろ過や亜硫酸量の話などはその典型です。

入れずに済むなら入れないし、入れた方がいいなら入れる。それが品質として「味」を追求する立場の造り手の揺るがない選択です。

ここで重要なことは、品質を追求する立場であっても同じ結果が得られるのであれば、思想を追求する立場の人と同じ手段を取り得る、ということです。

今回のまとめ | 自然派であることに注目する人は何を見ているのか

「思想」が重要なのは多くの場合、造り手にとってだけです。

もちろん造り手のそのような思想、情熱に感銘を受けてファンになったという飲み手側の方もいるとは思いますが、ごく一部です。それ以外のその他大勢の人にとってはワインの品質とは普通、「味」です。

確かにストーリーテリングを通して消費者をこの「思想」の方に寄せることでワインを販売する手法はありますが、それはまた別の話です。

そしてこうして「味」に注目している人が「自然派であるかないか」という「思想」について評価することは実は的外れなことです。「味」と「思想」は実は全く別のディメンジョンに存在しているからです。

「味」について評価するのであれば、そのワインが自然派であろうとなかろうと「美味しい / 美味しくない」のみの判断軸で評価をするべきで、「自然派だから~」という判断軸は不要です。それはある種のマスクであり、いいわけです。自然派ワイン以外でも美味しくないワインは世の中には山のようにあります。美味しいワイン、もしくは美味しくないワインは全てが等しく、同じ平面の上で比較されるべきです。

筆者にとってはワインの品質とは味であること一択です。そこにはいかなる思想の入り込む余地もありません。どんなにご立派な思想を掲げてみても、美味しくないワインは美味しくないです。

ですので、そんな私からみると自然派ワインの定義が決まったところで何の意味もないのです。「自然派ワイン」「ナチュラルワイン」と名乗れば、エチケットに書けばワインが美味しくなるのであれば話は別なのですが、そんなことがあるわけはありません。

であれば、なぜ好き好んで自分自身の手足を不要に縛るようなことをするのか、と思ってしまうのです。そんなことをして品質を落としていては、それこそ単なる自己満足にすぎないだろう、と。

一方で、思想を追う人たちは多いですし、そこに目を奪われて騒ぎ立てる人たちも多くいます。今回の定義の決定で、粗製乱造の自然派が増える、もしくは減る、と言っていらっしゃる方もおられるようですが、そんなことはありません。

この定義は「品質」を規定していないからです。「品質」を規定しない物差しで「品質」を語ることはどうやってもできません

品質を規定しないルールはすべて自己満足か販売戦略に過ぎない、筆者はそう考えます。

皆さんはいかがお考えでしょうか?

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  • この記事を書いた人

Nagi

ドイツでブドウ栽培学と醸造学の学位を取得。本業はドイツ国内のワイナリーに所属する栽培家&醸造家(エノログ)。 フリーランスとしても活動中

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