「樽香」
日常生活では聞きなれない単語ですが、ワインをお好きな方にはとても馴染みのある言葉なのではないでしょうか。
「樽香 (たるこう)」とはワインから感じられる、樽に由来する香りを指しています。主にアルコール発酵が終わったワインを木の樽に保管し熟成させることで、本来は樽についていた香りがワインに移るのがワインから樽の香りがする理由です。
樽香は複数の香りの種類をまとめた表現方法です。一般的に樽香には次のような香りが含まれています。
- ヴァニラ
- チョコレート
- ココナッツ・ミルク
- スパイス / クローブ
- アーモンド / ナッツ
- コーヒー
- キャラメル
- トースト / ロースト
こうした香りそれぞれには香りの由来となる物質が存在しています。ヴァニリン、オイゲノール、ラクトン。こうした聞きなれない名前の物質が樽からワインに移動 (これを抽出と呼んでいます) してくることで、ワインの樽香は生まれます。
この樽からの抽出にはいろいろな要因が関わっています。
そうした要因とは、樽に使われる木材の種類であったり、樽の内部のトースト度合いであったり、樽の使用回数であったりします。
木樽に使う木材の種類や樽の作り方など、ワイン醸造に使われる木樽の基礎については「徹底解説 ワインと木樽 | 樽熟成の主役 オーク樽の基礎」にまとめています。
木樽というとどうしても樽香が目立つため、樽からの抽出は香りに注目されがちです。しかし実際には樽から抽出されてくるのは香りだけではありません。
この記事では樽からの「抽出」に注目します。
樽から抽出されるもの
樽から抽出されるものは多く、細かく見ていくととても複雑です。
しかしこうした複雑なものをとても乱暴にまとめてしまうと、それはフェノールになります。
フェノールも非常に大括りな表現ですが、樽の話をするうえで重要になるのはフェノール類の中でもvolatile phenols (揮発性フェノール類)、nonvolatile phenols (非揮発性フェノール類)、そしてaromatic phenolic components (芳香族フェノール類) です。
nonvolatile phenolsとは細かいことを除けばいわゆるタンニンです。基本的に香りはなく、ワインに含まれていても口に含まずに鼻だけでその存在を判断することは出来ません。
一方でvolatile phenolsはaromatic aldehydesとも呼ばれる香りの元になる物質群です。いわゆる樽香のなかでも特に有名な、ヴァニラの香りの原因であるVanillin (ヴァニリン) がこのvolatile phenolsに含まれます。
さらにvolatile phenolsと区別して扱われているのが、aromatic phenolic componentsと呼ばれるやはり香りの元になる物質の一群です。Eugenol (オイゲノール)やオークラクトン (oak lactone) もしくはウイスキーラクトン (whisky lactone)とも呼ばれるβ-methyl-γ-lactone (4-methyl-5-butyl-dihydro-2-furanone とも)、Guaiacol (グアイアコール)などが含まれます。
なおもう少しだけ化学的な話をすると、ラクトンにはcis異性体とtrans異性体と呼ばれる2つの形態が存在します。このうち主に香りに影響するのはcis異性体です。
樽の抽出物とワインの味
ワインを樽で熟成した場合、そのワインの味が変わります。変わる理由には主に2つの可能性があります。
1つは樽からの抽出。香りの場合と同様に、ワインの味に影響を与える何らかの物質が抽出することでワインの味が変わる可能性です。
もう1つの可能性は酸化による影響です。木製の樽はステンレスタンクと比較して酸素の透過量が多いとされています。簡単にいえば、樽に保管されたワインは時間に応じてより多くの酸素に触れます。この結果、ワインの酸化が進み (これを熟成と表現することが多いです)、それによってワインの味が変わる可能性です。
なおこれ以外にも、ワインの香りが変わることによって、実際には味の変化はなかったとしても、味の印象も変わって感じる可能性もありますがここでは扱いません。
また樽がどれだけの酸素を透過する可能性があるのかについては「木樽の酸素透過量はどれくらいなのか」の記事、もしくはオンラインサークル内のメンバー限定記事を参考にしてください。
樽からワインに抽出される、味に影響を与える可能性を持つ主な物質はnonvolatile phenolsです。
nonvolatile phenolsにはgallic acid (没食子酸)とellagic acid (エラグ酸)が含まれており、樽からの抽出で注目されやすいのは特にellagic acidから生成されるellagitannin (エラギタンニン)と呼ばれる物質です。
一方でgallic acidもellagic acidと同様に加水分解型のタンニンを形成します。これまでに報告されているレポートによれば、gallic acidとの結合数が多いタンニン方が渋みが強くなるとされています。
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gallic acidはブドウにも天然で含まれていますが、樽による熟成を行わない場合にはワイン中にgallic acidに由来する加水分解型タンニンが含まれることはないと言われています。
つまりワインを樽に保管することで初めてnonvolatile phenolsに由来するタンニンがワイン中に抽出され、渋みや収斂感に作用する可能性が生れます。またこうしたタンニンは主に赤ワインの色味に対しても作用する可能性が示唆されています。
なお樽からのEllagitanninの抽出量は条件次第で最大40%程度変わることが分かっています。
つまり同じようにワインの熟成に樽を使っていたとしても、nonvolatile phenolsの抽出量が異なる条件下においてはワインへの影響が大きく変わり得ます。
これに対して樽熟成の有無に関わらずワインに含まれている苦味や渋み持つ物質であるカテキン類が樽での熟成を通して増加することはなく、こうした意味においては樽でワインを熟成したとしてもそのワインがより渋くなったり収斂感が強くなったりすることはありません。
なおワインに焦げた木の味を感じる時があります。これは主に樽のトースト度合いが高い場合に感じることの多い味ですが、フェノール等によるものではなく、純粋に内部表面が炭化している樽にワインが接触することで受ける影響の1つです。
樽香の種類とその由来
ワイナリーがワインの熟成に木樽を利用する最大の理由の1つがワインへの樽香の付与です。多くのワイナリーが樽の利用を通してフルーティーさが主体となっているワインにウッディな香りを追加し、全体のバランスを整え、より複雑みのあるストラクチャーやボディを表現しようとしています。
そうした重要な役割を担う樽香を構成する成分の多くは、もとから樽に含まれていたわけではありません。樽が作られる過程で樽の原料となっている木材内に存在しているlignin (リグニン)やcellulose (セルロース)、hemicellulose (ヘミセルロース)がエタノール分解や熱分解によって変質し、揮発性成分として樽に含まれるようになります。
セルロースやヘミセルロースが樽のトーストを通して分解によるキャラメル化やメイラード反応を生じます。これがキャラメル香や焼いたパンの香りの元となります。
一方でリグニンの反応は少し複雑です。
リグニンが樽のトーストにより熱分解されると、vanillin (vanillaldehyde)、Syringaldehyde、coniferyaldehyde、そしてsinapaldehydeという各種芳香系アルデヒド (aromatic aldehyde)とGuaiacol (グアイアコール)が生成されます。Vanillin (ヴァニリン)はヴァニラの香りを、Syringaldehydeはベリー系の香りを、Guaiacolはスモーキーな香りを持つ成分です。
これらの成分の割合は樽のトースト度合いによって変化します。また樽に残存しているリグニンはワインに含まれる酸とアルコールによる作用でワイン中に抽出されます。
ココナッツやオーク、新鮮な木の香りを持つLactone (ラクトン)も樽のトーストによって含有濃度が上昇することが分かっています。一方でスパイシーなクローブの香りを持つEugenol (オイゲノール)はシーズニングの前、木材の伐採直後が最も含有量が多く、その後は徐々に濃度が低下するとされています。
こうした香り成分の抽出量は樽に使われる木材の産地によって異なることも分かっています。
一例を上げればVanillinの抽出量です。
全体のフェノール類の抽出量自体はヨーロピアンオークの方がアメリカンオークよりも多い一方で、Vanillinについてはアメリカンオークの方がヨーロピアンオークよりも多く抽出されます。これがアメリカンオークの方がヨーロピアンオークよりも華やかな香りがつくと言われる由来となっています。
今回のまとめ | 樽の機能をどう見積もるのか
木樽はもともとはワインを保存し、運搬するための一般的な容器として活用されてきました。しかしその後、樽に使用した木材からの抽出という新たな機能を持つことが判明し、単なる容器としてだけではない使い方がされるようになってきました。
一方でこの機能は永続的なものではなく、かつ安定したものでもありません。
樽からの抽出には限界があります。一般的には3度ほどの利用で限界を迎えるとされています。それ以降は樽は抽出という機能を失った、単なる木製の容器となります。
しかもこの3回の利用の間における各回の抽出量の変化は一定ではありませんし、その変化を正確に把握することは出来ません。
また樽からの抽出物量はワインのアルコール度数、pH、保管時の温度や保管期間、樽のサイズ、そして樽自体の持つプロフィールなど多くの要因に左右されます。特に樽自体の持つ個体差は影響が大きい割にコントロールしにくいものです。こうした各種要因をすべて把握したうえで、その樽に入れたワインの変化を事前に、正確に見積もることはおそらく誰にも不可能です。
つまり、樽を利用することは多かれ少なかれ、出たとこ勝負となります。
ワイン造りにおける樽の役割は多くのところで様々な内容が語られています。
時には樽がワインの核を得るための、極めて重要なパーツだという人もいます。木の味のするワインを好む造り手も飲み手もいます。そうした観点からは樽の持つ抽出という機能はワイン造りに欠かせないものの1つです。
しかしその機能は最大値も、使用時点における正確な影響度も測れない類のものです。
予測のつかない未来との誤差を減らすために、ワインの造り手はいろいろな保険をかけます。新樽だけではなく抽出物量の異なる古樽を併用し、時には樽に入れないワインを保持します。常に樽の中での変化を確認し、タイミングを見計らって樽から出し、必要に応じて程度の異なる抽出のかかったワイン同士をブレンドします。
必要であればさらにオークチップなどを利用して追加の抽出をかける場合もあります。
そこまでやっても完全に自分の期待した姿になるとは限りません。時には完全な見込み違いになることさえあります。そうしたリスクを取りながらも、造り手たちは自分たちの見立ててで樽の持つ不確定要素を見積もっています。
樽の香りのするワインを飲んだ時、樽香の有無だけではなく、時にはそこからもう一歩踏み込んで造り手の見積もりを想像していただくのも面白いのではないでしょうか。