自身のワインを造る際、発酵に乾燥酵母を用いるのか、それとも土着酵母、いわゆる野生酵母を用いるのかを一度も悩んだことがない、という生産者はあまり多くはないのではないでしょうか。
発酵の安定性が高く、安全なワイン醸造を行っていくのであれば乾燥酵母を用いた発酵を選択するのが確実です。これに対して野生酵母を用いる自然発酵では、発酵過程における各要素の不確実性が高く、それが不完全な発酵をはじめ様々な発酵上のトラブルの原因となることはよく知られています。また自然発酵ではオフフレーバーの原因となる化学物質の生成を通して、ワインの味や香りに対する官能的欠陥を生じるリスクが高くなることもまた、指摘されてきています。
そうしたことがありながらも、近年のワイン造りにおいては乾燥酵母の使用を避け、ブドウやワイナリーに生息する土着微生物を用いた自然発酵を選択する生産者が増えています。その背景にあるのは、「工業的なイメージ」からの脱却に加え、自然発酵がよりその土地固有のテロワールを反映し、複雑な香味をもたらす可能性を秘めている、という考えです。広く一般に流通し、誰もが同じものを使用することができる乾燥酵母では、自分たちがいる土地の個性は表現できない、という考えがそこにはあります。
一方で、発酵に関するトラブルはワイナリーにとっては致命的なものになりかねません。そのため乾燥酵母が開発される以前からも、如何にして発酵を安定させるのかには多大な努力が続けられてきました。そうした過程の中で開発され、使われてきた伝統的な技術の1つが、ピエ・ド・キューブ (Pied de Cuve) です。
この記事ではワイン造りにおいてより安定した自然発酵を実現するための技術である、ピエ・ド・キューブについて解説をしていきます。
ピエ・ド・キューブという醸造手法
ピエ・ド・キューブの調製と運用は、ワインの本発酵を始める前に開始されます。ポイントは本発酵の前に予備発酵を行うことです。
まずは本収穫の前に少量の収穫を行い、そこから得られた果汁を発酵させます。続いてその発酵中の果汁を本発酵用の果汁に接種します。この際に本発酵用の果汁には接種した発酵中の果汁を通じて酵母が移動します。この酵母がスターターとなり、本発酵用の果汁でも発酵が促されます。ピエ・ド・キューブとは、この発酵を促すためのスターターとして調製された果汁のことを指します。
一般的にはピエ・ド・キューブの調製には乾燥酵母は使用せず、野生酵母による発酵を促します。しかし広義の使われ方では、乾燥酵母を用いた事前培養であってもピエ・ド・キューブと呼ぶことがあるようです。なおこの記事では、ピエ・ド・キューブはあくまでも野生酵母による自然発酵を通して調製するものとして定義します。
ピエ・ド・キューブとは「樽の底」という意味です。この語源が示すとおり、樽の底に沈んだ酵母の上に新しい果汁を入れるとすぐに発酵が始まることから名付けられました。スパークリングワインの製造で瓶内二次発酵を行うシャンパーニュでは、酵母の増殖と環境への適応を促し、より安定した二次発酵を行うための技術として、伝統的に行われてきています。
ピエ・ド・キューブと似た醸造手法に、Back-slopingと呼ばれる方法があります。どちらも発酵した果汁から酵母を取得して本発酵に利用する点は同じです。両者の違いは、酵母を採取するタイミングです。Back-slopingでは発酵がほぼ完了した時点で酵母を採取しますが、ピエ・ド・キューブでは発酵初期から中期にかけての、まだ活性の高い状態で酵母を取得します。
ピエ・ド・キューブが持つ2つの利点
品質リスクを高める待機時間の削減
ピエ・ド・キューブを利用するメリットは、時として、本発酵が開始するまでの待機時間をほぼゼロにできることだと説明されます。
ブドウ果汁が発酵を開始するまでには、通常、数時間から数日の待機時間が必要です。これは発酵を担う酵母がまずは果汁中で増殖して数を増やし、それから果汁に含まれる糖分を代謝し始めていくためです。つまり発酵が始まるまでの待機時間とは、酵母が細胞数を増やすための増殖期間であり、増殖が速い酵母であれば待機時間は短くなり、遅い酵母であれば待機時間は長くなります。
一方で、ピエ・ド・キューブとは発酵用のスターターです。この液体にはすでに十分に数を増やした酵母が含まれているため、本発酵用の果汁に添加すれば、わずかな待機時間だけですぐに発酵を開始します。待機時間をまったく必要としない場合もあります。
ではなぜこの挙動がピエ・ド・キューブを使用する大きなメリットになるのでしょうか。
確かに発酵の待機時間がなくなることで、醸造プロセス全体の所要時間が数日単位で短縮されます。しかしより重要なのは、プロセスが短くなること自体ではなく、それによる影響です。発酵が開始されるまでの待機時間の長さが、その後の発酵のトラブルや官能評価上の欠陥を招く、大きな要因となっています。待機時間を短くすることで、そうした悪い影響が生じるリスクを下げられる点が、ピエ・ド・キューブの利用がもたらす重要なメリットとなります。
自然発酵は待機時間が長くなるという現実
まず前提として、乾燥酵母を使用せずに完全に野生酵母をよる自然発酵を行う場合、発酵開始までの待機時間は比較的長くなる傾向があります。そしてこの長い待機時間の間に頻繁に活動するのが、非サッカロミセス系酵母 (non-Saccharomyces species, 非サッカロマイセス とも) です。
サッカロミセス系酵母と非サッカロミセス系酵母の関係性
それが自然発酵であったとしても、発酵の中心的役割を担っているのはほとんどの場合でサッカロミセス系の酵母です。その中でも特に、サッカロミセス・セレヴィシエ (Saccharomyces cerevisiae, サッカロマイセス・セレヴィシエ とも) は重要な存在です。現在市場で流通している乾燥酵母もそのほとんどが、サッカロミセス系の酵母となっています。
非サッカロミセス系酵母はその多くがサッカロミセス系酵母よりもワインの醸造環境への適応が弱く、発酵を完了まで持っていくことができません。また発酵能力自体も、サッカロミセス系酵母と比較すると弱い傾向が見られます。乾燥酵母の添加有無を問わず、残糖がほぼない状態まで発酵が進んでいるワインにおいては、そのほとんどがサッカロミセス系酵母による発酵が行われています。
つまり自然発酵を選択した場合であっても、本格的な発酵が開始されるにはサッカロミセス系酵母の増殖を待つ必要があります。しかし非サッカロミセス系酵母の多くはサッカロミセス系酵母よりも増殖が早く、時としてサッカロミセス系酵母の増殖を阻害します。
自然発酵の開始が遅くなる理由、欠陥の出やすい理由
こうした競合状態が結果的に非サッカロミセス系酵母の活動時間を長くさせ、サッカロミセス系酵母による発酵の開始を遅らせます。またあまりに強くサッカロミセス系酵母の増殖が阻害された場合には、発酵の遅滞や中断といった、より大きな問題につながる場合もあります。
非サッカロミセス系酵母による代謝はサッカロミセス系の酵母とは違う場合が多い点も、この系統の酵母が持つ特徴です。サッカロミセス系の酵母は作らなかったり、作ったとしてもごく少量しか作らないような化合物も、代謝の中で大量に作ったりします。こうした化合物の中には、ワインに複雑味を与えるものとして作用するものもあります。しかしその一方で、酢酸エチルや酢酸などのように、ワインの品質を下げる原因となる物質も含まれています。
非サッカロミセス系酵母はその種類がとても多い一方で、ブドウの果皮上に存在する確率の高い系統はある程度わかってきています。それらの種類の酵母は代謝の過程で揮発酸など、ワインの品質に対してネガティブな影響を与える系統の物質を比較的多く生産する傾向があることもわかっています。
非サッカロミセス系酵母の活動する時間が長くなる、つまり発酵までの待機時間が長くなるほどに、こうしたリスクは高くなります。そのため、自然発酵でありながらも待機時間を短くしたり、ほぼなくしたりすることのできるピエ・ド・キューブの利用が有効だとされているのです。
酵母の選抜
ピエ・ド・キューブが持つ2つ目の利点が、適切な酵母の選抜と発酵環境への適応です。
現在までに確認されている酵母の種類はおよそ2000種前後ですが、実際にはその100倍以上の種類の酵母が存在している可能性が高いと考えられています。そうした数多くの酵母のなかで、実際にワインに対して良い影響を及ぼす株がどれだけ存在しているのかはわかりません。一方で、ワインの品質を維持もしくは向上させるためにはより適切な酵母を選択していくことが欠かせません。
自然発酵を採用する場合、発酵を担う酵母株は選ぶことができません。また自然発酵ではヴィンテージ間どころか、同一ヴィンテージ内のバッチ間であっても酵母動態の再現性は低くとどまります。仮に今年のヴィンテージが良好であったとしても、次のヴィンテージも同様の結果になる保証はありません。自然発酵はテロワールを反映するとも言われますが、そこで反映されるテロワールに酵母叢の再現性は含まれないのが現実です。
その発酵槽の中でどのような酵母が動くかわからず、制御もできない。自然界に存在する酵母の多様性を考えれば、ここにはあまりにも大きなリスクが存在しています。だからこそ、ピエ・ド・キューブという発酵の管理手法が考案されました。
ピエ・ド・キューブを用いた運用では、事前に調製したスターターを本発酵に添加するか、しないかを含めて、いくつかの面から本発酵に用いる酵母をある程度選抜することができます。この場合の選抜は乾燥酵母のような、株単位の厳密なものではありません。よりおおまかな、群集単位での選抜となります。しかしそうした群集単位のものであっても、発酵中に生じる様々なリスクを相当程度、抑制することができます。
ピエ・ド・キューブの調製と酵母の選抜
ピエ・ド・キューブの調製を通して酵母の選抜をかける方法は、2つあります。1つは複数のピエ・ド・キューブを同時に調製し、その中からより望ましい特徴を持ったものを選ぶ方法です。そしてもう1つが、1つのピエ・ド・キューブを複数の段階に分けて調製する方法です。
ピエ・ド・キューブの運用でより多く行われているのが、1番目の方法です。複数のなかからより適したものを選ぶため、望んだ特徴に近いピエ・ド・キューブを使えます。しかしその一方で、選抜に漏れたものは原則として廃棄となり、ロスが多くなる点がデメリットです。
これに対して、そうしたロスを出さずに運用できるのが、2番目の方法です。
2番目の方法はスケールアップ法 (SUM) とも呼ばれる方法です。この調製方法では、最初に用意した少量のピエ・ド・キューブを2段階から3段階の工程に分けて、徐々に増やしていきます。
SUMにおけるピエ・ド・キューブの作成では、具体的には最初の果汁が発酵を始めた数日後に、最初の果汁の2倍程度の量の果汁にピエ・ド・キューブを移します。そしてさらにその数日後に、今度は数倍量の果汁にまたこのピエ・ド・キューブを移します。この操作を複数回繰り返すことでピエ・ド・キューブのスケールをあげていき、最終的には本発酵用果汁の5%程度の量にまでスケールをあげたところで本発酵へと移行します。
SUMでピエ・ド・キューブが新しい果汁に移行されるときには、都度、それまでの酵母間の競合状態が白紙に戻されます。その一方ですでに増殖を開始している酵母にとっては増えた菌体数を減らすことなく移行できるため、スケールアップ作業を繰り返すほど、事実上、優勢酵母を基準に選抜が進むことになります。
SUMでは複数バッチを仕込む場合とは違って、選抜する対象となる酵母を意図的に選ぶことはできません。一方で、ピエ・ド・キューブの調製に伴う果汁のロスが生じないほか、比較的長い調製期間を経ることで酵母が発酵環境によりよく適応できる点はメリットです。これにより発酵挙動がより安定し、官能的な欠陥の発生リスクも低くなることが期待できます。
ワイン造りに、あなたらしさを活かすパートナーを
栽培や醸造で感じる日々の疑問や不安を解消し、ワインの品質をさらに高めたい──
Nagi Winesは、あなたの想いとスタイルを尊重しながら、すべての工程をともに歩みます。
経験豊富な専門家が現場に入り、知識・技術・品質の向上を、実地作業を通じて支援。
費用を抑えつつも、あなたのワインらしさを守りながら確かなフォローを行います。
まずはお気軽にご相談ください。
まとめ|ピエ・ド・キューブはどこまで自然発酵を制御できるのか
ワイン醸造の近代化のなかで、乾燥酵母の利用はその中核を担う、重要な意味を持った技術です。この技術が一般に普及したおかげで、ワインの品質はそれまで以前と比較して大きく改善されました。しかしその一方で、この技術の普及が世界的なワインの均質化を進めたという主張は広くなされています。
ワイン品質の均質化は、ワイン造りの工業化という文脈に派生していきます。そしてそうした流れへのアンチテーゼとして台頭してきたのが、ナチュラルワインという嗜好です。
最近は一時期に比べると多少の落ち着きが見えはじめていますが、いまでも自然派ワイン、もしくはナチュラルワインと呼ばれるジャンルのワインは根強い人気を誇っています。一方でこのジャンルのワインに関する公的な規定はなく、様々なワインが自然派ワインやナチュラルワインとして販売されています。
一見すると言った者勝ちのようにも見えてしまう状況ですが、そうしたなかにあってもこのジャンルのワインを構成する重要な要素の1つと捉えられているのが、野生酵母を用いた自然発酵を行っていることです。昨今、多くのワイン生産者が自然発酵に目を向けるようになった背景には、少なからずナチュラルワインの、もしくはそこに流れる思想の影響があることは否定できません。
近年の地球規模での気候変動とそれに伴う温暖化は、ワイン造りに関わるあらゆる微生物の活動を活発化させます。そしてその結果、これまでは抑制できていたものが、同じ方法では抑制できなくなってきています。意図しない乳酸菌やブレタノマイセスの影響は、その典型です。
微生物の影響がより顕著に顕在化しやすい環境においては、一切の制御を持たない自然発酵は以前にも増して微生物汚染のリスクを醸造現場にもたらします。自然発酵への関心が高まる一方で、その選択に伴うリスクはむしろ以前よりも増大しているのが現状です。
だからこそ、ピエ・ド・キューブのような手法を利用して、自然発酵を制御することに大きな意味が出てきます。
少なくともピエ・ド・キューブを活用することで、ワインの品質劣化がない自然発酵を実現できる可能性が高いことは、複数の検証が裏付けています。また、ピエ・ド・キューブを使用することで乾燥酵母で醸造したワインよりもより自然発酵に近い特徴をもったワインが得られたとの報告もあります。ピエ・ド・キューブは自然発酵でワインを造るうえでの合理的な手段の1つといえます。
ピエ・ド・キューブの意味とその限界
ピエ・ド・キューブはより確実な発酵を行うためのスターターですが、その本質は選抜を通して酵母を株単位で管理することにはありません。酵母は群集単位で管理することで自然発酵としての意味を残しつつ、発酵のダイナミズムを時間軸で管理することにあります。
ピエ・ド・キューブを採用することでワインの品質が向上するという報告は多くありますが、実はピエ・ド・キューブが必ずしも欠陥のないワイン造りを保証しているわけではありません。ピエ・ド・キューブ内で確認されていた酵母株が、アルコール発酵の終盤では液中に存在していなかった事例も報告されており、ピエ・ド・キューブがワインの方向性のすべてを規定するわけでもありません。またピエ・ド・キューブを接種したにも関わらず、その後の発酵で大幅な遅延や中断が生じる可能性も指摘されています。残念なことに、ピエ・ド・キューブは自然発酵を完全に制御できる魔法の杖ではありません。
ピエ・ド・キューブが担っているのは、発酵そのものではなく、そのダイナミズムの調整です。この技術を利用することで、本来は管理できない自然発酵の方向性や、酵母群集の形成をある程度の時間軸のなかで調整することができるようになります。一方でそこには依然として、発酵の不確実性は残されています。調整をより高度化していくためには、これまでに見てきた内容よりも、さらにもう一歩踏み込んだピエ・ド・キューブに対する理解も必要となります。
自然発酵とはなんなのか。ピエ・ド・キューブとはなんなのか。その答えの本質は、乾燥酵母を使わないこと、に留まるものではありません。










