「ぺトロール香」という言葉を聞いたことはあるでしょうか?
主にワインのテイスティング、特に年代物のRiesling (リースリング) のワインをテイスティングしている際などに耳にすることの多い単語なのではないかと思います。
人によってはテイスティングの試験などでこの香りをかいだ瞬間に、そのワインに使われたブドウ品種をRieslingだと確定した経験をお持ちの方もいるかもしれません。
ワインに関係する特殊な香りの中では比較的有名なペトロール香ですが、これが具体的にどういうもので、何が原因で発生するものなのか、ということまでご存知の方はどれくらいいらっしゃるでしょうか?
「ぺトロール (petrol)」とはそのままガソリンのことです。
ワインのシーンで言う「ぺトロール香」とはこのぺトロール、つまりガソリンのような香りのことを指していて、ほかにも重油香、灯油香、ケロジン香などとも呼ばれます。
香りはそのままガソリンやまさに灯油のような香りで、空港の飛行機発着場の近くに漂っている香り、といってもいいかもしれません。
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ワインと灯油、まったくイメージがつながらない両者ですが、実際に一部のワインからはこの香りをかぐことができます。
今回はなぜそんなガソリンのような香りがワインからするのか、という疑問を徹底解説します。
この記事を読んでいただくことでぺトロール香とは何なのか、どうしてワインの中からそんなにおいがするのか、そしてこの香りを避けるためにワイナリーではどのようなことをしているのか、ということを知っていただくことができます。
シンナーやワックスの香りの好みが人それぞれであるように、ぺトロール香も好みの差がはっきりと出る類の香りです。
この香りが好きでも嫌いでも、その正体を知ることでコルクを開ける前からある程度その存在の可能性を予想できるようになるはずです。
そして、この記事を読んだ後には「ぺトロール香 = Riesling」という構図は頭の中でその存在感を随分と薄くしているはずです。
ぺトロール香はRiesling特有の香りなのか
「ぺトロール香」というとRieslingの代名詞のように言われることが多々あります。
人によってはブラインドテイスティングでこの香りを嗅いだ瞬間にブドウ品種をRieslingと確定するくらい、この両者の関係は強いものと認識されています。
では、ぺトロール香はRiesling特有の香りなのでしょうか?
答えはNoです。
確かにRieslingのワインからはこの香りがすることが多いのですが、この香りはRieslingにしか出ない香りというわけではありません。
可能性という意味では赤ワイン用品種、白ワイン用品種に関わらずどのブドウ品種から造られたワインからでも検出され得るものです。
ぺトロール香はRieslingの香り、という構図はまさにステレオタイプだということをまずは確認してください。
ぺトロール香の出やすいワイン
ぺトロール香が出やすいワインにはある程度条件があり、それは以下のようなものです。
- Rieslingを使ったワイン
- 特定の酵母を使って発酵させたワイン
- 熟成を経たワイン
- 暑い地域のワイン
- 暑い年のワイン
- 比較的高い温度環境下で保管されたワイン
これらの理由は以下の説明のなかで明確にしていきます。
一方で仮にぺトロール香のするワインが好みに合わない場合には、単純に上記の各種条件に一致しないワインを選べばまずこの香りに当たることはありません。
ぺトロール香の正体とはなんなのか
ワインの勉強をしている方にはぺトロール香の原因はTDNである、という話を聞かれたことがある方も多いのではないでしょうか?
TDNとは1,1,6-trimethyl-1,2-dihydronaphthalene (トリメチルジヒドロナフタレン) の略です。
長い名前に読むことにさえ嫌気がさしそうですが、末尾の「naphthalene」という単語に注目してください。そう、ナフタレンです。
ナフタレンといえば原油から精製されるナフサから作られる物質、もしくは防虫・殺虫剤の成分として有名です。この辺りから、この物質を含むことでガソリンのような香りがする理由が分かっていただけるのではないでしょうか?
余談ですがこのTDN、人間が知覚できる閾値はおよそ2μg/L程度といわれています。これに対して熟成したRieslingのワインでは50μg/Lを超えるTDNが検出されることもあるほどです。
この「熟成したRieslingのワインには多量のTDNが含まれる傾向が強い」という事実が、TDN (ぺトロール香) = Rieslingという図式を作る大きな要因となっています。
さて、ぺトロール香の原因物質がTDNであることはすでに明確です。
このため多くのサイトでもこのTDNが含まれることが原因でぺトロール香がする、という解説がなされているのですが、この説明はブドウの栽培およびワインの醸造的側面から見れば間違いではないのもののいささか物足りません。
TDNはぺトロール香の原因ですが、このオフフレーバーがワインに含まれてしまう根本原因では厳密にはないからです。
注目すべきはTDNではなくCarotinoid
「TDNはぺトロール香の原因であるが、オフフレーバーの根本原因ではない」、という一文に混乱していらっしゃる方も多いかもしれません。
すこし整理しましょう。
まず、ぺトロール香の原因物質はTDNです。 (ここがそもそも分かりにくいのですが、TDN自体がぺトロールのようなにおいがします。TDNがワイン中で何かをすることでこの灯油のような香りが生じているわけではありません)
一方で、ぺトロール香のするワインに含まれるTDNの多くは、収穫および発酵等の醸造時点ではブドウの果汁内には含まれていません。
TDNの多くは発酵後(もしくは醸造後)の熟成段階で生成されます。
つまり栽培、醸造段階でTDNをどうにかしようとしてもそれは不可能です。なぜならこの時点でTDNはまだほとんど存在していないからです。
ここで重要なのは、TDNとはいわば副生成物のような存在である、ということです。この意味で、TDNはオフフレーバーの根本原因ではないのです。
では何が根本的な原因物質なのかというと、それがCarotinoid (カロテノイド) です。
Carotenoidから作られるTDN
Carotenoid (カロテノイド)とは人参に含まれていることで有名なβ-カロチンなどを含む天然色素の一群のことです。
「一群」と書いているように、Carotenoidはある特定の物質を指す単語ではなく、およそ800種類近くもの物質群を表す総称です。
Wikipediaによると、
カロテノイド(カロチノイド、carotenoid)は黄、橙、赤色などを示す天然色素の一群である。微生物、動物、植物などからこれまで750種類以上のカロテノイドが同定されている。 (中略) 自然界におけるカロテノイドの生理作用は多岐にわたり、とくに光合成における補助集光作用、光保護作用や抗酸化作用等に重要な役割を果たす
とされています。
ブドウに含まれているのはTDNではなくこのCarotenoidです。
このCarotenoidがブドウの成長中もしくは発酵、ワインとしての熟成中に分解され、その分解されて生じた成分が酵素等による反応などを経て再合成することでTDNを含むNorisoprenoid (ノルイソプレノイド)と呼ばれる香気成分群がブドウ内もしくはワイン内に生じます。
Carotenoidを出発点として合成される物質(Norisoprenoid)はTDNだけではありません。
一方でブドウ中に含まれるCarotenoidの量が増えるとそれだけTDNの合成確率が相対的に高くなりますので、結果としてぺトロール香の出る可能性が高くなります。
必ずしもネガティブではないNorisoprenoid
TDNはNorisoprenoidのうちの一つではありますが、すべてではありません。
Norisoprenoidにはほかにもβ-Damascenoneやα-およびβ-iononeを含むvitispiraneという物質も含まれます。
中でもβ-Damascenoneはそれ自体がフルーティーな香りを持つだけでなく、他のフルーティーな香りを持つ成分をより強調させる効果があるとして赤と白両方のワインにおいて有用な成分であることが分かっています。
つまり、どんなワインにもCarotenoidを出発点として生成されたNorisoprenoidが含まれています。これはそのまま、どんなワインにもTDNが含有される可能性がある、という意味になります。
またTDNにしても微量であれば含有されていてもワインに複雑みを与えるとしてポジティブにとらえられることもあります。
この辺りは嗜好品として人それぞれ異なった好みがあるためとしか言えない部分でもあります。
Carotinoidとは何なのか、なぜ作られるのか
これまでの説明でTDNを減らすためにはその原因物質であるCarotinoidを減らしてやればいい、ということに気が付かれた方も多いのではないでしょうか?
ではCarotinoidを減らすには具体的にはどうすればいいのでしょうか?
それを知るためにはCaroteinoidがブドウ中に含まれている理由を知る必要があります。
そもそもCarotinoidが存在する理由は前述のWikipediaからの引用にもあったCarotinoidの働きにあります。
もう一度振り返ってみましょう。
Carotinoidの役割は、
- 光合成における補助集光作用
- 光保護作用
- 抗酸化作用
といったものです。
つまり色を持つことで太陽光の吸収を上げ光合成の効率を補助する一方で、その集めた光によるダメージを軽減すること、といえます。
これはいわば以前の「徹底解説|赤ワインはなぜ赤いのか?」などでも触れた、フェノールと同じ側面を持っているということでもあります。太陽光からのダメージが大きくなる地域、つまり紫外線の強い地域においてCarotenoidはより多く作られる傾向があります。
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逆に言えば、ブドウが紫外線からダメージを受けることを何らかの手段で防ぐことができれば相対的にCarotenoidの生成量を抑制することができる、ということでもあります。
この辺りの対策はブドウの日焼け対策にも通じる部分です。ブドウの日焼けとその対策については「気温の上昇で被害が続出 | ブドウの日焼けとはなんなのか」の記事にまとめています。
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強い紫外線以外のCarotinoidの生成を促す要因としては、
- 高温
- 乾燥
- 特定の栄養素の不足
などがあげられます。
これらの要因を見ていただくとわかる通り、Carotinoidの生成にはストレス要因が強く関わっています。
なぜRieslingはTDNが出やすいのか
Carotenoidの性質はフェノールに似ている、ということを書きました。
お互いがともにUVからの保護物質であり、紫外線が強くなるとその生成量が多くなるという共通点があります。
実はこれ以外にもこの両者には共通点があります。
それはそれぞれが生成され、蓄積される場所です。
フェノールもCarotenoidも基本的にはブドウの果皮の部分に蓄積されます。
しかしこれにはごく一部の例外があります。それが、Rieslingです。
一般のブドウ品種においてCarotenoidは果皮部分に集中して蓄積されます。一方である論文によると、Rieslingにおいては果肉内にもCarotenoidが蓄積されるというのです。
一方のブドウではCarotenoidは果皮にしか蓄積されないのに対して、他方のブドウでは果肉内にも蓄積されるのであればそれぞれの果実における重量当たりのCarotenoidの蓄積濃度は明確に後者が高くなります。
そしてCarotinoidの含有量はそのままTDNの見込み生成量に比例します。
またこれに加えて、Rieslingに含まれるCarotenoidは相対的にLuteinが多くなる傾向にあることが報告されています。
LuteinからはほかのCarotenoidと比較してTDNの生成量が多くなることが分かっています。
つまり仮に同じ量のCarotenoidを含んでいたとしても、Luteinの量が相対的に多くなるRieslingにおいてはTDNの生成確率は他方に比べてより高くなる傾向にあります。
メモ
Lutein (ルテイン)とはβ-カロチンなどと同様にCarotenoidに分類される物質の一つ。
本文中に記載したとおり、Luteinからはβ-カロチンなどよりも多くのTDNが生成されることが分かっています。
これらのことがまさに、RieslingにおいてTDN、つまりぺトロール香が出やすい理由なのです。
ぺトロール香を避けるための対策
ワインにおけるぺトロール香を避けるための方法には大きく分けて以下の二つのアプローチがあります。
- Carotinoidの生成量を抑制する
- TDNの生成量を抑制する
それぞれを見ていきます。
原因の抑制 | 栽培面からのアプローチ
一つ目はそもそもの原因となる物質である、Carotinoidの含有量を減らすための方策です。
Carotinoidはブドウが収穫される前にはすでに含有量のピークを迎えていますので、これを抑制するための方策はそのすべてが栽培面での対策となります。
ポイントはブドウが受けるストレス要素の排除もしくは軽減です。
前述のとおりCarotinoidが生成される原因となるストレス要素は「強すぎる日差し(紫外線)」、「乾燥」、「高すぎる気温」そして「特定栄養素の不足」ですので、これらを個別に排除もしくは軽減するための対策を行っていくことでCarotenoidの生成量を減らすことが期待できます。
具体的には
- 除葉の時期と程度の調整
- 灌漑の実施
- 土壌の栄養素(主に窒素量)の把握と適切な調整
などがあげられます。
発生の抑制 | 醸造、保管面からのアプローチ
二つ目のアプローチはすでに含有されてしまっているCarotenoidから如何にTDNを生成させないか、というものになります。
TDNの生成のカギはCarotenoidの分解にあります。
そもそもCarotinoidを分解させない、もしくは分解量を低く抑えることができれば結果的に将来的なTDNの生成量も抑えることができます。
Carotenoidの分解に影響を及ぼす要因は、酸素、温度、そして光です。またこれ以外の要因として、一部の代謝に活性を持つ酵母およびブドウのクローンの種類がTDNの生成量を増やすことが分かっています。
つまりTDNの生成を抑えるためのアプローチとしては、
- 問題となる種類の酵母やクローンを使わない
- (瓶内)熟成時および輸送時を含めた保管温度を下げる
という点が重要になります。なお酵母による影響はコントロールが難しいため、保管時の温度管理を中心に対策を行っていくことがより現実的な対策だといえます。
熟成及び保管、輸送時に低温管理が必要となる理由は、温度が高くなると酵素等の活性が高くなり、分解および再合成のプロセスが早くなるためです。
TDNは一度生成されてしまうと消失することはないため、例えば購入前に瓶内でTDNが生成されていた場合などにはその後にいくら低温保管を徹底しても効果は限定的となってしまいます。
今回のまとめ | ぺトロール香は今後増える可能性が高いオフフレーバーである
この記事の冒頭でぺトロール香が出やすいワインとして以下のようなワインをあげました。
- Rieslingを使ったワイン
- 特定の酵母を使って発酵させたワイン
- 熟成を経たワイン
- 暑い地域のワイン
- 暑い年のワイン
- 比較的高い温度環境下で保管されたワイン
ここまで読み進めてくださった方であれば、ご自身でそれぞれのワインにおいてなぜぺトロール香が出やすいのかを説明できると思います。
翻って、このサイトの記事でも折に触れて書いていますが、昨今の気候変動によりドイツをはじめとして地球の様々な地域で年間平均気温と最高気温が上昇する傾向にあります。
ブドウの日焼けに関する記事でも書いたことですが、この傾向はとりもなおさずブドウの果実中におけるフェノールやCarotenoid等の保護物質の含有量を増やすことにつながります。つまり、ぺトロール香が発生するリスクは高くなっていきます。
すでにそれほど熟成をしていないワインであっても、南アフリカやオーストラリアなど気温の高い地域で造られたRieslingのボトルからはぺトロール香が知覚される頻度が高くなっているという話もあります。
ぺトロール香は確かに人によっては好ましい香りとしてとらえられるケースもあります。
また熟成したRieslingからはこの香りが出るのは当たり前で特別なことではないという認識が広く普及しているために、この香りをオフフレーバーとは捉えない人も多くいます。
しかしこの香りの生成は栽培や醸造等の方法によってある程度回避できるものですし、なによりもぺトロール香が出るとワインからフルーティーさが失われます。
熟成の変化の一つとしてこの香りを扱うことに反対はしませんが、ワインがブドウから造られたものである以上、ワインに含まれる果実味を失ってガソリンの香りを得ることは本末転倒ともいえるものです。
今後はRiesling以外のブドウ品種においてもこの香りが出やすくなる傾向である以上、醸造家としてはこれをオフフレーバーとして認識し、可能な限り低減させていくことが大事だと筆者は考えます。