ワイン用ブドウの栽培家にはブドウの「根」に異様なまでのこだわりを見せる人が相当数いらっしゃいます。
彼らの見ているものは、「自根」のブドウです。
ワインの業界にいると相応の頻度で出会うのが、この「自根」を特別視する風潮です。誤解を恐れずに言えば、ワインを勉強している方であればあるほどこの風潮に流される傾向が強いようにも思えます。
では、この「自根」であることは本当に意味があるのでしょうか?今回はそんな疑問に答えます。
「自根」はなぜ特別視されるのか
ワイン用のブドウの栽培の歴史はフィロキセラによる被害の歴史をなしに語ることはできません。
それまでも、そしていま現在においてもワイン用のブドウ品種として隆盛を極めている「Vitis vinifera (ヴィティスヴィニフェラ) 種」を襲ったこのフィロキセラ禍と呼ばれる空前絶後の大災害を機に、台木という技術がワイン用ブドウ栽培に導入されました。
この結果、ブドウ畑におけるVitis vinifera種の樹の大多数は自分たちの本来の根を持つことがなくなり、台木の根を使って成長をしていくようになったのです。
「大多数」が、と上記したように世界にはフィロキセラによる被害を免れた畑も少数ですが存在しています。
世界における多くのブドウ畑が壊滅的被害を受けたなかで生き残ったこれらの畑は当然の帰結として、その希少性からくる「貴重さ」のイメージを増大させていきました。本来であればフィロキセラの被害を免れた「畑」に集まるはずだった注目が、ブドウ単体、より具体的に言えばその「根」に集まってしまったことが「自根」が特別とされる結果につながったと筆者は考えています。
そして、その「自根」という単語が「フィロキセラの被害を免れた畑」から切り離され、それ単体としてのイメージを膨らませていった結果、「自根信仰」ともいうべき自根であることへの強いこだわりに発展したと考えています。
フィロキセラについては「徹底解説 | フィロキセラ」でまとめていますので御覧ください。
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徹底解説 | フィロキセラ
Phylloxera (Viteus vitifoliae). Woodcut engraving from the book "Gartenbau-Lexikon (Encyclopedia of ...
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ブドウが「自根」であることの意味
結論から言ってしまえば、ワイン用のブドウが「自根」であることによるワインへの影響はないとされています。
つまり、ブドウ畑に植えられているブドウが自根であっても台木であってもそこから造られるワインの品質には影響はない、というのが学術的に言われていることなのです。
この点から言ってしまえば、ワイン用ブドウの栽培家が「自根」に拘ることには科学的な根拠は一切なく、あくまでもその栽培家個人が持つイメージに根ざしたこだわりに過ぎません。
そして厳しい言い方になりますが、根拠がない以上、そのこだわりには見出すべき客観的価値は特にはないのです。
それでも「自根」が違うのはなぜなのか
一方で「自根」を特別視する方々も一切の根拠もなくその主張をしているわけではありません。「自根」のブドウ樹から造られたワインを実際に飲んで、感じた結果として「自根」は違う、と主張されている場合が多いのは事実です。
また実際にフィロキセラ禍以前に造られたワインを飲んでその違いを明言されている方も多くいらっしゃいます。そういった言説を集めれば、確かに「自根」であることは台木を使っている場合と比較して「違う」という結論につながるのもある意味ではわからなくはないことなのです。
「自根」であることの意味するところ
これまでに研究されている結果などを踏まえた上で端的に考えて、ブドウの樹が自根を持つかどうかには意味はありません。自根であろうが、台木の根であろうがそれらがもたらす効果は基本的に同じであると考えるのが現時点においては妥当です。
ではなぜ「自根」のワインには違いが見られるのでしょうか?
ここで考えなければならないことは以下の3点であると筆者は考えます。
- 根の深さ
- 土壌
- イメージ
以下、個別に内容を見ていきます。
根の深さがもたらすもの
根の深さとはつまり水分供給の安定化です。
ここで注意していただきたいのですが、樹齢とは無関係です。
確かに根の成長は基本的に成長にかけた時間に起因しますので、根が深く根ざしていればいるほど基本的には樹齢もまた高くなる傾向にあります。このためついつい樹齢を注目のポイントとしてしまいがちですが、公表されている研究結果からみれば、樹齢はワインの品質に直接的な影響を及ぼしません。
一方で根の到達深度はブドウが安定的に水分を摂取できるかどうかにダイレクトに影響します。
水分摂取が滞るとブドウが受けるストレスが増加しますので、このストレスを原因とする各種成分の生成過多に影響が及びます。その結果としてそのブドウの樹から取れたブドウを使って造ったワインにも何らかの影響が出る可能性があります。
この「ストレス環境に基づく違い」を「根の種類による違い」と取り違えてしまっている可能性があるのです。
土壌に向けるべき視点
ここで言う土壌の違いとは、その土壌に含まれる栄養素的な意味での違いではありません。
少し連想ゲームをしましょう。
自根のブドウが生き残った
→ フィロキセラの被害を受けなかった
→ (Vitis vinifera種は基本的にフィロキセラへの耐性を持たないので) フィロキセラの被害を「受けても生き残った」のではなく、そもそも「被害がなかった」
→ 土壌内にフィロキセラが生息しない、もしくは存在の絶対数が圧倒的に少ない
→ (フィロキセラが生息できないという意味で)その土壌が他の地域のものと異なっていた
これは極めて単純な発想の展開です。
そしてそこから得られる結果は、「フィロキセラがいるけれど生き残った結果の自根」ではなく、「フィロキセラがいなかったから生き残るべくして生き残った自根」であるということです。
このことは非常に大きな違いと意味を持ちます。
ここから導き出されることは2つあります。1つ目は、
フィロキセラが生息している土地での自根への試みは無意味である
ということ。
フィロキセラのいない土地での自根の生き残りは、フィロキセラが生息している土地でも努力次第で自根のブドウを成長させることができることを意味しません。
すでにフィロキセラに感染している土地において自根に拘ることはフィロキセラの活動を活発化させ、存在する個体数を増加させる結果にしかなりません。「徹底解説 | フィロキセラ」の記事でも書いたことですが、その土地におけるフィロキセラの個体数の増加の引き金を引くことは1人のブドウ栽培家が背負える責任の範疇を大きく超えます。
これを安易に考えるべきではありません。
そして2つ目の点は、
自根のブドウの樹からもたらされる特徴は、フィロキセラが生息できない土壌の特質からもたらされるものである
ということです。
フィロキセラが生息しない土地には以下の2つの種類があります。
まだ未到達の土地
生息条件が合わない土地
未到達の土地、というのは南部オーストラリアなど未だにフィロキセラが侵入を果たしていない土地のことです。
これらの土地はフィロキセラが到達していないだけで生息できないわけではありませんので、土壌的な特性はフィロキセラ被害を受けている土地のものと大きな違いはありません。ですので、このタイプの土地から得られる「自根」であることの特徴は前述の根の到達深度に基づくものであると考えられますし、ブドウの樹自体の活性量の違いによる可能性もありえます。
一方で2つ目の生息条件が合わない土地、というのは一般的にフィロキセラの被害を受けた畑のある土地とは環境要因が大きく異なります。
環境要因が大きく異なるということは、つまりブドウの生育条件も大きく異なるということです。
生育条件が異なる土地で栽培され、収穫されたブドウから造られたワインに特徴的な差が出ることはある意味で当然のことといえます。そこに「根」の違いは関係ありません。
イメージによって造られるワインの味
以前に「ナチュラルワインを買う理由」という記事を書きました。
詳しくは記事を読んでいただきたいのですが、簡単に要約すると「感覚的には美味しくないと感じたワインであってもバックグラウンドなどから受ける印象次第でその結果は逆転し、購買に至る」というものです。
「自根」のワインについてもこの要素が少なからず関わっているのではないかと思われます。
冒頭の「自根」= 希少で貴重なもの、という印象を強く持っていればいるほど、その印象に感覚が引きづられてもなんら不思議ではありません。
またブドウに対して愛着を持っていればいるほど、純血主義のような思想に考えが傾いていく可能性も高くなります。そこに善悪はありませんが、思考の硬直化と偏向がかかることは否定出来ないのではないかと思われます。
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ナチュラルワインを買う理由
der deutsche Weinbauという雑誌にとても興味深い記事が掲載されたため、その内容を紹介したいと思います。 印象か、感覚か まずこの記事のタイトルは"Image vs. Sensorik ...
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またこういったことの他にもフィロキセラ禍前後ではブドウの栽培手法、醸造手法、収穫高、そして気象条件すべてが変化しています。ここには台木を用いたことによる樹勢への影響も含まれます。
このため、ワインの味わいに違いがあったとしても現実的には何ら不思議はないのです。
今回のまとめ
フィロキセラ禍の前後では複数の因子が異なっていることを書きました。
身も蓋もないことを言ってしまえば、こういった諸々の変化の結果を内包しているもの同士を比較することには意味がありません。なぜなら、結果として現れている変化がどの要因を原因としているのかが特定できないからです。
この論理で言えば、その変化の結果が「根の種類」にある可能性は当然残っています。
しかしその可能性は限りなく低いことがすでに研究によって明らかにされています。これまで書いてきたように、注目すべき点は「自根」かどうかではなく、その周囲にある各種要因です。
そういった要因を無視して「根の種類」に拘ることにはどのような意味があるのか。ぜひ一度、ご自身で考えてみていただきたいと思います。