ワイン

濁ったワインは何が悪いのか

04/04/2020

濁りワイン

日本では意外に市民権を得ている印象の強いワインのカテゴリーですが、これは日本独特な動きと言えます。

注意

「濁りワイン」という名称はもしかしたら特定の造り手に帰属する商標となっているかもしれません。今回の記事ではこの特定の商品を指しているわけではなく、積極的に「濁っている」ことを前面に押し出したワインのこと全般を指しています

もちろん世界にも醸造過程を通してフィルターろ過を行わない「unfiltered」のワインは多く存在していますし、一部ではこのようなスタイルがブームのようにもなっています。しかしこれらのワインはあくまでもろ過をしていないことが大事なのであって、「濁っている」ことが重要なわけではないことに注目しなければいけません。

なぜ、世界では「濁り」に焦点を合わせないのか。
この点について今回の記事ではお話をしていきたいと思います。

「え、ろ過をしていないんだから濁っているでしょ?」という感想を持たれた方はぜひこちらの記事を最後まで読んでみてください。そういった感想を持ってくださった方こそ、これからのワインの在り方を自然に理解し、受け入れやすい方だと思っています。

ろ過しない = 濁っている、ではない

「ろ過 = 透明度」という考え方を無意識のうちに根強く植え付けられてしまっているケースというのは実は多くあります。ちなみにこの「透明度」というのは文字通り、対象の透明さのことです。透明度が高ければ高いほど、その液体は透き通って見えます。対義語は「濁度」といいます。

ボトリングされた後のワインだけに触れていると、もしかしたらそもそもワインは透明なもの、と思われている方もいらっしゃるかもしれません。

ワインはその製造工程中に酵母を入れたりしていることに加え、ブドウを搾った際の果皮の破片などが混入してしまったりしているため、実は結構、不純物が多く入っています。こうした不純物が何らかの方法で取り除かれない場合、そのワインはそれなりに濁ったものになります。

こうした「濁り」の原因を取り除かないまま積極的にボトル内に入るようにボトリングしたものが「濁りワイン」というものになります。

一方でこの「濁り」の原因を取り除く方法ですが、上の文章で「何らかの方法で」と書いたように、ろ過だけに限りません。いくつかの方法があります。ここではそれらの方法を説明することはしませんが、フィルターろ過しなくても対象の液体、ここではワインを「ある程度」透明にすることは出来ます。

イメージが付きにくい方は家庭のお味噌汁を想像してください。

お鍋の中のお味噌汁をかき混ぜると中の具材やお味噌が混ざり合ってお味噌汁は白濁して見えます。一方で、前夜に作ったお味噌汁を見ると具材やお味噌が沈んできれいな上澄みが出来ています。この上澄みだけ取ってみてれば、同じお味噌汁とは思えないほど透明度は高くなります。お味噌汁をろ過していないにも関わらず、です。

もちろん目に見えないほど微小なレベルではろ過を通したかどうかの差は大きくなりますが、少なくともヒトの目には同じく透明に見えます。

つまり、「濁りワイン」ではこの「具材やお味噌が舞い上がって濁った状態」を瓶詰めすることが重要になりますが、unfilteredのワインは逆に一晩経ったお味噌汁の上澄みの部分だけを瓶詰めすることが大事になります。Unfilteredは原則として濁っていてはいけないのです。

ワインを規定する2つのディメンジョン

前章の最後でサラッと、「Unfilteredは原則として濁っていてはいけないのです」と書きました。ここからはこの点について説明したいと思います。

一般の飲み手の方にとってはそれほど知る必要もないことではあるのですが、ワインというものは2つのディメンジョンで規定されています。

「ディメンジョン、、、、?なんだそれは」と思われる方もいらっしゃると思います。別に難しく言う気はないのですが、これはまさに「ディメンジョン」という単語が適正かな、と判断して使わせてもらいました。そしてその2つのディメンジョンとは「法律」と「試験および評価」です。

これはワイン法が酒税法の一環としてしか存在していない日本では理解されにくい点かも知れませんが、欧米諸国のワイン生産国においてはそのほとんどで独立したワイン法が制定されています。このワイン法において、そもそもワインはどのような要件を満たさなければならないのかが規定されています。

この規定を満たさないものは「ワイン」と呼ぶことは出来ず、「ブドウを原料として造られたアルコール飲料」となります。

とは言っても、こういった法律や規定では規制の範囲は最低限度に留まることがほとんどで、その液体が濁っているのか透明なのかという点までは言及されないことがほとんどです。そうしないと、その「透明度」を規定するルールを別途制定しないとならなくなり、大変なことになるからです。実際、EUで制定されているワイン法ではワインの透明度に関する条文は存在しないですし、この法律に基づいてEU加盟諸国で自国仕様に制定されている各国のワイン法上でもそのような条文は少なくとも筆者は聞いたことがありません。

つまり、ワイン法上では「濁りワイン」はアリなのです。

しかしここに第2のディメンジョンが関わってきます。

共通言語としての「ワイン」

ワインという液体はワイン法が規定する枠組みの中では実は共通言語としての枠組みを持ってはいません。法律としての性質上、その規定の枠組みが大雑把で、その中には玉石混交のあまりにも多種多様なものが内包されてしまい単純比較ができないためです。

「刃物」という括りの中で食事用のナイフと農業用の鍬を比べようとしているようなものです。

そこでこの散らばりきって、拡散しきったような集合をある程度絞り込んで方向性を持たせようとする動きが出てきました。それが、品質評価です。

これはドイツの例ですが、造られたワインは流通に乗せる前に公的な品質評価を受け、認証を得る必要があります。この認証をもってはじめてその「ブドウから造られた液体」は「ワイン」として認められ、「ワイン」として販売することが可能になります。逆に言えば、その品質評価で不適当と判断されたものは「ワイン」として販売することが出来なくなります。ワイン法が定める要件をすべて満たしていたとしても、です。

仮にそれがワイン法としてはワインとして認められたとして、最低限度の品質を満たしていなければそれはワインに非ず、というわけです。

そしてこの評価の方法は一般的なテイスティングルールにも適用されています。そうすることでワインの評価を共通言語化しているのです。

この共通言語しての評価法の分かりやすい例がドイツではDLG 5-Punkte-Schemaと呼ばれる方法です。

この試験手法自体はあくまでも品質の認定評価に使われるものですので、ここで落第したから商流に乗せられない、というほど強いものではありません。しかし、ワイン関係者は大体においてこの手法に基づいて手元のワインを評価します。前述の公的評価でもほぼ同様の手法がとられています。このため、マーケティング的意味においてもこの手法の評価項目に沿っていることは大変重要なことでもあります。

この評価方法においてはワインの品質を構成する複数の要素に対して5点 (0~5点を0.5点刻みで評価) で採点をしていき、最終的にその平均を5点満点で表します。

そしてこの評価手法の最初の設問が、対象となっているワインの「透明度」なのです。

しかもこの設問は点数評価ではなく、yes / noの2択となっています。つまりこの評価方法ではワインの透明度は評価基準ではなく、すでに前提である、ということです。

「濁りワイン」はワインではない、という認識

筆者に限らず、欧米などワイン法を整備し、その存在をしっかりと定義し認識している組織に所属し、ワインを学んだ人はおそらく全員がワインの在り方の基準としての評価方法を徹底的に教え込まれています。ある意味でワインとしての前提条件、常識、といってしまってもいいかもしれません。

そしてこうした人たちにとっては、評価の前段ではじく項目である「透明度」を満たさないワインとはすでに評価の対象ではなく、極めて強い表現を使えば「ワイン」でさえないと認識されます。「濁りワイン」という存在は、その味や香りを云々する以前にそもそも共通言語としての「ワイン」の外に在るものなのです。

だからこそ、欧米で造られるunfilteredのワインは未ろ過であっても濁ってはいないのです。上記のような品質基準が無意識化でワインとしての大前提として認識されている社会においては、unfilteredであることは濁っていることを意味しませんし、濁ることに主眼を置いたりはしません。むしろその逆で、unfilteredであっても濁らないように造るのです。

もちろん価値観というものは人それぞれで、その多様性は尊重されるべきものです。

ですので、どこかの認証機関が勝手に決めたようなルールに全員が全員従う必要は当然ありませんし、「濁ったワイン」を「ワイン」として認めることがあっても何の問題もありません。実際に法律はそれを認めています。

ただ逆に言えば、「濁りワイン」は「ワイン」ではない、という価値観も同時に尊重される必要があります。それは価値観の多様化ではありますが、残念ながら同一線上に両立できるものではありません。

まさしく、2つの異なるディメンジョンに分かれて存在している価値観です。

今回のまとめ | 時代はダブルスタンダードへ

ワインの造り手として話をするのであれば、ワインが濁っているということは数々の不要なリスクを抱え込むことになりますし、品質上も安定しません。その不安定さを複雑性とか変化とかいう言葉できれいに見せることも可能ですが、少なくとも筆者個人はそれを良しとはしません。

しかし、「濁っている」ワインがいい、悪いというのはそれよりももっと前の段階にあるお話です。

造り手の価値観とか、ワインの可能性とかいう以前の、そもそも共通言語としての「ワイン」の範疇の内か外のどちらに存在しているのか、ということなのです。筆者の認識する「ワイン」においては濁っていることはそもそもあり得ないものとなりますが、別の認識に基づけば「濁ったワイン」はアリなのです。

すでに書いたように、価値観は人によって様々です。ですので、共通言語で話そうとするのも、この枠組みから外れたところで話そうとするのも自由です。どうしても「いい」もしくは「悪い」という表現で話をしてしまうと、その対極にあるものを否定し排除するような印象につながってしまいますが、実際にはどちらも否定されるようなものではありません。

問題なのは、この「共通言語」としての認識が無意識下でされている、ということです。

この「共通言語」としての枠組みはワインを公的に学んでいる人ほど強く染み込んでいます。そのため、ワインをあるガイドラインに沿ってまじめに学んでいる人ほど「濁っているワインをありがたがる姿勢は理解できない」という考え方をしがちになります。

これは従来の正統な考え方に基づいてワインに触れている限り、100%間違いのない正解です。

ただ、そういう形でワインに触れていない人、いわゆる「伝統的な共通言語体系」に属していない人からすれば、むしろそういう考え方こそ理解不能になります。「ブドウから造られているんだし、何より美味しいんだからいいじゃない」と。

これからのワインマーケティングにおいては飲み手を「従来からの共通言語」への接触度合い、浸透度合いによって最低2つのディメンジョンに分けて捉える必要があります。これは実は飲み手だけではなく、造り手に対しても言えることでもあります。「濁りワイン」を造り出す造り手は少なくとも従来型の共通言語の内側では捉え切れないためです。

現状においてワインというものに対しての発信力が強い人たちはすべからく、従来型の共通言語圏の住民です。しかし、この多層化する現代においてはそういった最前面に出て目立つことはないけれど、局地的には極めて強い影響力を持って発信される情報というものが増えてきています。そうした草の根的な動きの背景にいる人たちはこうした共通言語圏外にいらっしゃる方々も多くなってきています

自分たちがどのような言語圏に所属し、どういう視点でワインを捉えているのか、という点を一度見直し、そのうえで自分がいるディメンジョンの外には同じものをまったく異なる捉え方をするディメンジョンとその住人が存在するのだ、ということをしっかり認識し、その存在を許容することがとても重要な時代に入ってきています。

自分が学び、土台としているものを否定する必要はありません。ただ「濁ったワイン」を目にしたときに、それに”yes”と回答するにしても”no”と回答するにしても、そこで思考の足を止めてはいけない、ということです。

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  • この記事を書いた人

Nagi

ドイツでブドウ栽培学と醸造学の学位を取得。本業はドイツ国内のワイナリーに所属する栽培家&醸造家(エノログ)。 フリーランスとしても活動中

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