ワインの味を話すときによく、「ワインは畑ごとに味が違う」ということを聞いたりしないでしょうか?
これ、実はものすごく当然のことです。
というか、この言説に納得している人、誤魔化されています。いろいろと。
え、誤魔化されてる?なにに??
と思った方、ぜひこの記事を読み進めてください。きっとこれからは素直に「畑ごとの」ワインの味を見ることが出来なくなると思います。
何が違って何が同じなのか
さて、造り手や売り手、その他のワイン関係者に誤魔化されないようになるためにはまず最初に一つの問いかけに答えてもらう必要があります。
その問いというのが、これです。
「ワインの味は畑ごとに違う」ということは「ワインの味は畑ごとでは同じ」ということとほぼ同義です。
ではこの「同じ」はどのレベルで「同じ」だと思いますか?
この後でもちろん解説をしますが、まずはぜひ一度、ご自身の記憶や感覚に問いかけて考えてみてください。もしそうは言っても同じ畑のワインを飲み比べたことがない、ということでしたら想像していただくだけでも結構です。
この同じは完全に「同じ」ですか?
それともある程度の幅をもった「同じ」ですか?
さぁ、皆さんの回答はどうだったでしょうか?
おそらく、ですが、ここで完全に一致という意味での「同じ」と答えた方はあまりいらっしゃらないのではないかと思います。逆に、
実はなんとなく、同じ雰囲気がするような、しないような。でもみんな言ってるからきっと同じなんだ、と思うくらいの感じの「同じ」
と思った方、いらっしゃるのではないでしょうか?
ものすごく不安定ではっきりしない、あやふやな部分を大量に含んだ感想ですが、実のところそのくらいの感覚をお持ちの方が大半なのではないかと思います。しかしこれは無理もないことです。むしろ、当然のことです。
なぜなら、一つの畑の中でもワインの味は違うからです。
もう少し踏み込んで言うのであれば、「畑」という単位よりも小さいところでワインの味は違います。「畑」という単位を構成する下部単位レベルで味が違うのであれば、その下部単位の集合体である「畑」単位での味が違うのは当然のことです。
少し分かりにくいでしょうか?ここで例を上げましょう。
ワイナリーによっては畑の中でもさらに「区画」を区切ったワインをリリースしているワイナリーがあります。こうしたワインを飲んでみると確かに区画が違うとワインの味が違います。この「区画」は「畑」を構成する下部単位です。
ある集合を構成する要素の単位で差があるのであれば、それらが集合した結果同士で差があるのは当然だと思いませんか?
つまり、畑によってワインの味が違う、のではなく、畑の中でさえワインの味は違う、が正解なのです。
なぜ畑単位で考えてしまうのか
「畑ごとにワインの味は違う」という言説に出会ったとき、人はそこに理由を当てつけます。曰く、畑ごとに土壌が違う、曰く、微小気候が違う、云々。
なるほど、間違いではないでしょう。しかしそれはごく一部の話です。そもそもの視点が誤魔化されています。
いいですか、皆さんは誤魔化されています。これが大前提です。
それでは一体どのように誤魔化されているのか、というお話です。
ここで2つ目の質問をしましょう。
ワイナリーのリリースしているワインというものを見てみたときに、それぞれの違いはどのレベルで生じていると思いますか?
村単位ですか?
畑単位ですか?
区画単位ですか?
樹単位ですか?
全部違います。樹の単位の下にある房単位でもありません。実、その一粒の単位です。
疑問に思った方、考えてみてください。仮にブドウが病気になった場合、その単位は何ですか?果実の熟成が進んだ時に果汁の糖度が上がるのはどの単位ですか?
すべて、実一粒という単位です。
そしてこの単位でものを考えるときに本当に土壌や微小気候が影響しますか?
はっきり言いましょう、するわけがありません。もちろん影響が全くないわけではありません。しかし、それと同時に土壌も微小気候もほぼ同じ条件下にあるはずの、同じ樹に実った、同じ房の中でさえ粒ごとにその状態は違っているのです。
つまり、冒頭の「ワインの味は畑ごとに違う」という言説の理由を土壌や微小気候に求める行為は間違いではありませんが、単位が大きすぎるのです。なのにこれを言われると何となく納得してしまっているのであれば、それは誤魔化されているのです。
実は平均化されたものへの納得が生まれている
ではなぜ皆さんは何となく、畑単位で考えてしまっているのでしょうか?
これ、実はとても簡単です。その単位でしかワインの味に触れられないからです。
つまり飲み手にとっては多くの場合、ワインの最小単位は「実一粒」ではなく「畑」になってしまっていることがその理由です。実際にそれよりも小さい単位である「区画」を提示されれば、今度はその単位で納得しているのがその証拠ともいえます。
しかし前述の通り、実際にはワインの味の違い (ここからはこれを「不均一性」と表現します)、不均一性は実一粒から始まっています。
「畑」とか「区画」という単位での理解は、この最小単位で始まる不均一性をどの単位に合わせたところで (その単位の持つイメージに向けて) 均一化しているのか、という話なのです。細かいバラツキをどのくらいのところでまとめて、それらをまとめることで出せる方向性を出しているのか、と言っても構いません。
均一化のレベルが違うのですから、そのそれぞれの単位を比較すれば当然差があります。その結果、ワインの味は区画ごとに違う、とか、畑ごとに違う、ということになるわけです。
ちなみにこの時の「不均一性の均一化」とは単位が小さくなるほど不均一性が大きくなる方向での均一化です。
これはある意味において不均一であるとする「バラつき」の純度が高い状態ですので、比較単位が小さくなるほど往々にして差が大きくなって感じられるものです。単位が大きくなればなるほどバラついている味や香りはより平均化される、という言い方をすれば分かりやすいでしょうか。はっきりと言ってしまえば、細かい違いを分かりにくくぼやかしている、ということです。
村名同士の比較よりも畑名同士の比較、畑名同士の比較よりも区画ごとの比較の方が違いが明確になる理由がここにあります。
合意されるワインのキャラクターはどこから生まれるのか
少し余談になりますが、あるワインの味の特徴が大体どのようなもの、という納得のされ方をしている理由にはいくつかあると考えています。具体的には以下のようなものがそうです。
- 不均一さが平均化されている
- 調整されている
- 記憶に騙されている
- n数が少ないうえに均一化されない要因を許容するのに乗じて頭の中で平均化してしまっている
1は上記で書いてきたことですので説明はしません。
2はより大規模のワイナリーであったり工業的なワイン造りを行っているケースでみられるもので、実際に一定の方向性をもって味や香りが厳密に調整されているケースです。ある意味で決まったレシピに従っているようなものですので、これは誤魔化しや勘違いというものではなく、実際に完全一致により近いところで同じ味や香りになっていることがほとんどです。
3は文字通りです。人の記憶はうそをつきます。それも頻繁に。
ある意味で思い込み、と言ってもいいことですが、この畑のワインの味はこういうもの、という思いをもって飲めば実際にそのように感じたり、もしくは新しく飲んだ味で記憶の方が上書きされたりします。ああ、こういう味だったな、と。
そして4ですが、一般の方が同一ロットで造られたワインを同時に複数飲むことは少ないと思います。仮に飲んでいたとしても、数年ごとであったりすることの方が多いのではないでしょうか。
そうすると3の記憶の問題もあるのですが、さらに厄介な「熟成」というパラメータを拾うことになります。この「熟成」という要素はボトルごとに生じるのでその差は平均化されることがありません。
さらにワイン通の方々はこの熟成というものを経ることでワインの味や香りがどう変わるかを知っています。知っているだけに、熟成によって香りや味が部分的により目立つ熟成香や味によってマスクされることを許容します。
熟成によってワインに生じる味や香りの変化の割合は大きいです。この大きな変化を許容すると、その裏にある小さな違いというものが見えにくくなります。
そうなると、熟成による変化によってマスクされにくい、分かりやすい大括りな特徴で畑や区画の違いを把握することになります。目立つところで特徴を取っていますので、どうしてもその認識の仕方はより標準化された方向に動く分、シビアさはなくなってきます。何となく、となることも多いはずです。
平均化のタイミングはどこなのか
ブドウの不均一性が現れる最小単位は実一粒だと書きましたが、その不均一性が均一化されていくタイミングは複数回あります。
その最初のタイミングが収穫時の容器のサイズ、そしてそこに続く白ワインであればプレス、赤ワインであればマセレーションの工程とそこに適用される器材のサイズです。このタイミングで畑で発生している各種の不均一性が作業単位ごとに平均化されます。そして同時にそのロットごとに新しいバラツキを拾います。
これらの作業は必ずバッチ作業になります。そのため、どう頑張ってもある程度の量の粒をまとめて作業することになります。
しかしここでまとめられた単位が実際に見ることが出来る味わいの最小単位かというと、実はそうではありません。この次に来る、醸造時に使用する容器の単位が実際にワインの味として検証することのできる最小単位となります。
どういうことかというと、発酵および熟成時に使用される容器の容量や特徴によってそこに入れられた量の単位ごとワインの香りや味が変わるからです。
分かりやすいのは前回の記事でも出てきたBarrique (バリック、小型の木樽) です。
仮にプレスが1000リットルだったとしてもBarriqueは220リットルですので、1度のプレスで得られた果汁は単純に見て4個のBarriqueに入れられ、さらに余りが出ます。そうすると、発酵、酸化、熟成といった各要素は各Barriqueそれぞれで異なった挙動を示しながら進むことになります。
そうでなくても、Barriqueからの抽出物およびその量が樽ごとに違います。Barrique自体にも個性があり、それぞれが完全に一致しているわけではないからです。Barriqueに入れられなかった余剰分に関しては言わずもがな、でしょう。
これらは次のアッサンブラージュやボトリングの工程でBarrique間の混合が行われない限り、味と香りが平均化された最小単位として扱われることになります。
(厳密にはBarriqueの中で各種成分の濃度傾斜が生じているはずですが、それはここでは考えないことにします)
樽ごとに味が違うのです。
たかだか200リットル強で味が違うのに、畑レベルで味が同じになるはずがあるでしょうか?
試験醸造として50リットルほどのガラスバロンで醸造を行えばこの単位は50リットルとさらに小さくなります。実際のワインの味の違いはそういう世界の話なのです。
先程も書いたアッサンブラージュ、という工程が最たるものですが、こうしたバラツキを一定の方向に調整しているからこそ、より大きい単位でワインの味が平均化され、なんとなく畑ごとに味の傾向が同じであるように感じているのです。
今回のまとめ | ワインの味は絞り込むのではなく積み上げるもの
「ワインの味は畑ごとに違う」という言説を説明する、土壌や微小気候という単語に基づいてブドウ畑を見てみると、どうしてもより広域の面積を俯瞰したところから土壌や微小気候といった区分に基づいて絞り込みを行っていくことになります。そしてそうした絞り込みの後に残った、いわば広域を対象にした場合には拾ってしまうノイズを除外して純度を増した味が畑の味であり、それぞれのワインの味の違いの根拠だと思ってしまいがちです。
しかし、実際には逆です。
ノイズを除外しているのではなく、ノイズを重ね合わせているのです。
もっとはるかに小さな単位における違いを積み上げ、重ね合わせることで逆にノイズを見えにくいようにしていくことで味に枠組みや方向性を持たせているのです。そうすることで結果的には上からの絞り込みで得られたのと同じような特徴が出てくるでしょうが、方法論、考え方は全く逆です。
考えてみてください。
絞り込みから得られるものは固定です。しかし、積み上げの場合には積み上げ方、そのパーツによっていくらでも差別化が出来るのです。そこに広がっているのは無限に広い世界です。
にも関わらず、その世界を特定の枠組みに当てはめて限られたものにしてしまうことはあまりに残念です。そしてその限定された見方を押し付けられ、見えるべきものを誤魔化されるのも悲劇です。
ワインの味を巡る言説に納得をすること自体を否定はしません。
しかし、同時に自分は誤魔化されているかもしれない、という視点も持ってください。
それは本当に土壌が原因ですか?微小気候が理由ですか?造り手は一体どのレベルまでなら介入できますか?
あなたが見えているもの、認識できているものは果たしてどのレベルのものですか?