ワイン造りの現場で、酵素が注目を集めています。
酵素はヒトの生体活動から日々の生活にまで広く利用されています。消化酵素や酵素剤という単語を日常生活の中で耳にしたことのある方も多いと思います。さらに酵素は洗濯洗剤や鉱物の掘削にまで利用されています。まさになくなると生活が成り立たなくなる存在。それが酵素です。
そんな酵素がワイン造りの現場でどう利用されているのか。一問一答形式で解説していきます。
酵素は結局なんなのか
そもそも酵素とはなんなのか。成分的な意味での答えは、ほとんどの場合はタンパク質、です。酵素は一部の例外を除いて、単純タンパク質もしくは複合タンパク質からできています。
一方でより学問的な答えは、酵素とは生体内外で起こる化学反応に対して触媒として機能する分子のこと、です。別の言い方をすれば、原料となる有機・無機の化合物を取り込んで必要になる化学反応を引き起こす物質、となります。大雑把に言うと、食事で摂り込んだ食材をビタミンAやビタミンCといった栄養素のレベルに分解するきっかけになるもの、です。
酵素には基質特異性と反応特異性という2つの特徴があります。この2つの特徴によって、酵素はほぼ1:1で機能します。これは家の鍵と鍵穴のようなものです。自分の自宅の玄関の鍵は自宅の玄関しか開けられません。これと同じで、ある酵素は特定の決まった場所で決まった反応しか引き起こしません。
酵素はたった1つの反応を触媒することのみに集中しています。典型的な一点集中型で、集中している作業の効率はとても高くなります。ただ、ほかのことが何一つできません。内容や反応部位の異なる反応に対してはそれぞれ別の酵素が必要になります。
人工的に作るもの
違います。基本的には天然由来のものです。
ワインに関わっている酵素の由来は大きく分けて3つに分類されます。ブドウ由来のもの、酵母や乳酸菌など微生物由来のもの、そして醸造家によって添加される市販製品由来のものです。市販されている醸造用酵素もある意味で工業的に大量生産こそされていますが、その方法は天然由来の麹菌を培養するというもので、基本的には日本酒や発酵食品を造る際に行われている麹造りの規模を拡大したものと変わりません。
酵素の種類は1つだけ、効果も1つだけ
種類は無数ですが、効果はある意味で1つだけです。
世の中に酵素の元になるタンパク質は10万種あるといわれています。このうちのどれくらいが酵素として存在しているのかは分かりませんが、その数は2000種類とも5000種類を超えるともいわれています。ワイン造りに関係するものだけでも10種類を超える酵素があります。
1つの酵素は1つの役割、1つの効果しか持ちません。しかも1つの決まった場所でしか働けないため、世の中には同じ効果をもった複数の酵素が存在しています。ところで、酵素は何かしらの化学反応を触媒するものです。この化学反応というものをものすごくざっくりと分類すると、それは結合か分解かに分けられます。別々だったものをつなげて1つにするか、1つになっているものを2つ以上のものに切り離すかです。
ワイン造りで利用される酵素にはいろいろな種類がありますが、基本的にはそのほぼすべてがなにかしらを分解する化学反応を触媒しています。そうした意味でも、ワイン造りに使われる酵素の効果は1つだけといえます。
糖化のないワイン造りには不要なもの
日本酒やビールの醸造と違い、ワインには糖化のプロセスが必要ありません。このため一見すると酵素の必要性はないように感じるかもしれませんが、間違いです。ワイン造りにおいても酵素は重要な役割を果たしています。
醸造酒の製造において酵素がもっとも注目を集める工程はデンプンを糖に変える糖化の工程です。日本酒造りやビール造りでは必須の工程ですが、すでに多量の糖を含んでいる果汁を使用するワイン造りには必要ありません。一方で、実は醸造酒造りにおける最も重要な酵素の活躍の場面は糖化ではありません。発酵です。
あまり知られていませんがアルコール発酵で大活躍をする酵母であるSaccharomyces cerevisiae株は10種類を超える酵素をもっており、それらを駆使して代謝を行い、アルコールを作り出しています。つまり、酵素が関わっていなかったらそもそもアルコールを作ることが出来ないのです。こうした意味で、ワイン造りにおいても酵素はとても重要な役割を持っています。
また、仮に酵素がなかったらワインの香りはとても単純なものになってしまいます。
ワインの香りの多くは前駆体と呼ばれる、香りを持たない状態でブドウ果汁中に含まれています。この前駆体はアルコール発酵中に酵母の持つ酵素で香りを持つ状態に変化しますが、この変化の一部は収穫前、ブドウが成熟していく最中にも果実の中でブドウ由来の酵素によってすでに始まっています。酵素が全く関わらない状態で造られたワインは、ブドウジュースよりも香りのないものになってしまいます。
酵素はワインの味を人工的にする
答えはYesでもあり、Noでもあります。
ワイン醸造に関わる酵素はそのほぼすべてが多かれ少なかれ、ブドウや微生物を経由して人が任意に添加しなくてもワイン中に含まれる可能性があります。このため仮に醸造家が醸造用酵素を添加していたとしても、本来はワインに含まれるはずがなかった酵素が入ってくる、ということはありません。問題になるのはその量です。
酵素の働きはとても効率的で少量でもしっかりとした効果を発揮します。醸造時に添加する場合、果汁やワインの状態にもよりますが、必要量は0.001 ~ 0.003%です。これだけの量で十分な効果を発揮する酵素ですが、あまりに微量にしか含まれていない場合には十分な効果を得ることはできません。つまり酵素を添加する意味は、もともとブドウに同じ酵素が含まれていてもあまりに量が少なく、効果や影響がほぼ出ていなかったり足りなかったりしているところに人為的に酵素を追加することで、その効果をしっかりと目に見える状態にまで増幅してやることにあります。
ここで重要なのは、多くの用途では同様の効果が時間やコストをかければ酵素を添加しなくても得られるという点です。長期間にわたる低温浸漬による抽出量の引き上げなどはまさにこの事例の1つです。
酵素を入れることで効率が大幅に改善され、通常の方法では得られない程の成果を得られる可能性があります。これはある意味では人工的、といえなくもありませんが、酵素を入れなくてもほぼ同じような結果が出せる以上、酵素を入れたから人工的な味や香りになるとは必ずしも言えません。
お茶や紅茶を淹れるときのことを考えてみてください。
ある一定の濃さの味を出したいとき、必要最低量の茶葉を使えばその目的は達成されます。一方でより多くの茶葉を一度に使えば、より短い時間で同じ濃さのものが入ります。もしくはより濃い味のお茶が入ります。これは人工的なのでしょうか。
大量生産ワインのための手段
一面的にはその通りです。
多くの場合、酵素を使わなくても同じような結果は得られます。しかしそのためには多くの時間や手間、コストがかかります。ワインを大量生産する際にこのような手間や時間をかけてはいられませんので、酵素を添加して手間を省いています。酵素はより規模の大きい生産現場でこそ本領を発揮します。
一方で、酵素を使う重要な意味がもう1つあります。環境負荷の軽減です。
かかる時間を短くする、手間を省く、ということは逆の見方をすればそこに必要になるエネルギーや物資を使わなくて済む、ということです。すべてのエネルギーや物資の使用は環境に負荷をかけます。環境親和性、サステナビリティの視点からは可能な限り省力化することが正解です。酵素はこれを可能にします。
酵素はワイナリーの経済性を改善する
その通りです。酵素を上手く利用するとワイナリーの経済性が改善される可能性があります。
酵素を使うことで手間や時間を省き、そこにかかっていたコストを削減できることは前述のとおりですが、酵素の使用は物理的にワインの生産量を増やすことにもつながります。コストを削減しつつブドウの収穫量を増やさずにワインの生産量を増やせるのであれば、ワイナリーの経済性が改善されるのは当然です。
ワインの生産量が多くなる理由は簡単です。製造工程中に出るロスが大きく減るためです。
ワインを造っていると様々な場面で、様々な理由でワインの量が減っていきます。しかもこうしたロスはワインの品質をより高くしようとすればするほど多くなる傾向にあります。高品質のワインが高価になる理由の1つです。仮にこうしたロスを減らすことが出来るとすると、出来上がるワインの量は数パーセントから数十パーセントも多くなります。
ワインの喪失量が多いのが、清澄や濾過に関する工程です。特に濾過作業中にフィルターが目詰まりしてしまったりすると復旧のために相当量のワインが無駄になったり品質的な悪影響が出たりします。こうしたフィルターの目詰まりへの対策は醸造用酵素の最大の売り文句の1つです。
醸造資材の使用は悪である
造り手もしくは消費者の考え方次第なので難しい問題です。
最近の流行である自然派的な視点からすれば、酵素をはじめとして各種醸造資材を使用することは褒められたこととは言えません。一方で、上述の通り、適切で効率的な醸造資材の利用は環境負荷を軽減し、今注目のSDGs (Sustainable Development Goals: 持続可能な開発目標) に沿ったワイン造りを実現します。加えて多くの場合、酵素の適切な利用はワインの評価を高めることにつながります。
市販される醸造用酵素の大きな焦点の1つに多糖類 (Polysaccharide) の分解があります。ペクチンやグルカン、セルロースなどが対象です。
多糖類を分解することには3つの意味があります。1つ目はワインの収量の改善。圧搾時の搾汁率が上がり、清澄や濾過におけるロスが減ります。2つ目は果皮などからの抽出量の上昇。赤ワインでは色味が濃く、タンニンも多い、フェノールリッチなワインを造ることが出来ます。3つ目が味や香りの変化。香りの前駆体がより効率的に分解されて揮発性化合物の種類と量が増えるだけではなく、口に含んだ際のニュアンスを変えます。これらはほとんどの場合、ワインへの評価を高くします。
酵素を使ったからワインの味や香りがよくなるわけでは必ずしもありませんが、酵素を使うと多くの場合でワインの味や香りが明確に、分かりやすくなります。酵素はそれ自体は味も香りも持ちません。酵素が明確にするのはもとからブドウに含まれているものです。良くも悪くもブドウの特徴が目立つようになるため、より評価されやすいワインになるのです。
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今回のまとめ | 注目される酵素はワイン造りの新常識となるのか
醸造用酵素の利用は今に始まったことではありません。すでに長い期間、研究が続けられ商品開発が行われています。そうした意味でワイン造りの現場では酵素は珍しいものではありませんでした。そうした酵素が最近、改めて注目を集め始めています。
理由は酵素の利用範囲が広がってきていること、複数の効果を同時に実現する製品が市販され始めより大きなコストの削減効果が期待できるようになったこと、そして環境負荷を軽減できること。
最近注目を集め始めている酵素の利用分野は、これまでは別の醸造資材を使っていた工程です。この工程での作業を統合的な酵素製品を使った方法に置き換えることで、従来使用されていた醸造資材の使用削減、工程中で発生していた廃棄物の削減、さらには醸造資材自体の製造や輸送、ワイナリーでの使用にともなって発生していたエネルギーの使用や各種コストの削減を実現できると謳われています。
ワインは印象のお酒です。そこに伴うイメージがワインを飲む際に感じる味や香りだけではなく、取引される価格にも量にも非常に大きな影響を及ぼします。酵素の使用において重要なのは、「酵素を使用した」事実がこの印象にどのような影響を及ぼすのかを知ることです。
酵素はもともとブドウにも酵母にも由来しているため、仮に醸造用酵素として添加したからといって必ずしもその情報を公にする必要はありません。低コストで高品質のワインを世に送り出すための企業秘密の一環として秘匿したところで誰にも迷惑はかかりませんし、むしろ間違った、余計な誤解を生まないためには伏せてしまった方がいい場合もあります。一方で例えばSDGsにむけた取り組みとしてイメージ戦略に利用するのであれば、積極的に公開していく類の情報になります。
酵素を使う、使わないは造り手自身の判断です。設備、コスト、環境性、自身の哲学。判断基準は様々ですが、今後のワイン造りを取り巻く環境を前提とするのであれば、酵素の利用を頭から否定するのはあまりいい判断とは言えません。
酵素をはじめとした各種の醸造資材とどう付き合っていくのか。そうしたバランス感覚が造り手にはより求められるようになってきています。