気候変動。地球の温暖化。そんな話題に触れる機会が増えました。最近ではあまりに日常化しすぎてかえって耳にする機会が減ってきたような印象を受けるほどです。しかしそうした日常の変化は確かに影響を大きくしてきています。
太古の昔、地球上に栄えていた恐竜が絶滅した原因は気温の大幅な変化であった可能性がある。そんな事例を引くまでもなく、気温の変化というものはその環境に存在するすべての動植物に影響を与えます。それはもちろん、ワイン用ブドウの栽培現場においても例外ではありません。
ワイン用のブドウは世界各地で栽培されており、中には夏場の最高気温が40℃前後になるような地域も含まれています。そうした例を見れば、仮に地球の温暖化が進んでいたとして当面のところは大きな問題はないような気になってしまいそうですが、本当にそうなのでしょうか。
この記事では主に気温の上昇がブドウ栽培に及ぼす影響を解説しつつ、その先にあるワイン造りの将来について考えていきます。。
高い気温がもたらすポジティブな影響
地球規模の温暖化に対しては多くの分野の研究者たちから警鐘が鳴らされています。それはワイン用ブドウの研究を行っている専門家でも同じです。専門研究機関ではすでに、そうした気候変動後の環境変化を見越した人工環境下でのブドウ栽培検証も進められています。想定されている危機は実際に起こりうる現実として取り扱われ、どう対処していくべきなのかが真剣に検討されています。
しかしその一方で、ブドウ栽培の現場レベルでは現在の温暖化は意外なまでに肯定的に受け取られている部分もあります。なぜこれほど危機が叫ばれている環境の変化が好意的に受け取られているのか。ポイントはブドウの熟度です。
例えばドイツ。これまでドイツは冷涼気候の代表的な栽培地域といわれ、ワイン用ブドウ栽培の北限とされてきました。
この地域では寒い冬が長く続き、春の訪れは遅く、そして夏場の気温も上がりませんでした。そうした環境ではブドウの芽吹きも生長も遅く、本格的な冬が来るまでにブドウが熟しきることは困難でした。しかしこの一見するとブドウ栽培には不利な環境が、豊かな酸味と優雅で繊細な味わいをもったリースリングのワインを造り出すうえではこの上なく重要な意味を持ちました。そしてそれとは逆に、日照と温度、そして熟度を必要とする赤ワイン用品種の栽培には不利に働いたのです。
ブドウ栽培をする上での環境面における制約により、ドイツでは一般に評価されているような品質をもった赤ワインを造ることは難しかったのです。ところが昨今、このような状況が変わりました。ドイツでもとても品質の高い赤ワインが造られるようになり、世界でも高い評価を得るようになってきたのです。
気温と品種と熟度の関係
理由は気温の上昇にともなう熟度の高まりです。
極めて単純な言い方をしてしまえば、ドイツの赤ワインが評価されてこなかった理由はブドウの熟度が足りなかったためでした。ブドウの熟度が足りないからしっかりとしたテクスチャが得られず、どことなく軽く薄く、存在感の足りない赤ワインになってしまっていたのです。
しかし冬の気温が上がり、春の訪れが早くなりました。また夏場の気温が上がりブドウの生長自体が早くなりました。そして冬の訪れは遅くなりました。これにより収穫可能期間が長くなり、生産者はブドウの熟度を選んで収穫のタイミングを決められるようになったのです。
積算温度や日照時間の増加はフェノール類の蓄積を促し、ブドウに含まれる抽出物量は増える傾向を示し始めます。こうした変化は以前は軽くテクスチャに欠けた印象が強く持たれていた赤ワインの品質を高めただけではなく、従来から造られてきたリースリングなどの白ワインにおいてもポジティブな変化をもたらしました。フェノールの蓄積が白ワインに対してもより厚みや複雑さを持たせたのです。
高気温はブドウの生長を促す
一般に低温環境はタンパク質の生産速度や細胞壁の伸展性を低下させ、植物の生長を制限する要因として働きます。細胞壁の伸展性が制限されると細胞の膨張が妨げられ、細胞分裂も阻害されます。つまり、細胞分裂に長い時間を必要とするようになります。一方でこれとは対照的な影響をおよぼすのが高温環境です。
気温が高くなるほど植物の生長と発育は促進される傾向にあります。つまり気温の上昇は植物の発育を加速させ、必要とする時間を短縮させることにつながります。また生長が促進されるとは、細胞分裂がより活発に行われるということでもあります。これは結果的には生産されるバイオマスの総量を引き上げることにもつながります。
光合成の視点からみた気温の影響
植物の持つ重要な特徴の1つに光合成があります。光合成は光を利用して炭素から有機化合物を合成する反応ですが、一般的に植物は二酸化炭素と水を利用して酸素とデンプンなどを作り出しています。光合成の量は植物の生長や果実の熟度に極めて大きな影響を及ぼしています。この光合成に対して気温の上昇はどのような影響を持っているのでしょうか。
光合成自体は光を利用する反応で熱の介在はありません。一方で光合成の効率には気温が強く関わっています。
ワイン用ブドウにおける光合成の効率は温度が25~30℃の時に最大化するとされています。この温度帯を超え、温度が35℃以上になると効率は急速に低下しはじめます。ここで注意しておく必要があるのが、この場合の温度が必ずしも気温を意味していない点です。
植物が光合成を行うための器官は葉です。このため葉の表面温度が光合成の効率に対して強い影響を及ぼします。
高すぎる気温は光合成を抑制する
直射日光にさらされたブドウの葉は非常に大きな熱負荷を受けています。そのためブドウの樹には様々な方法で自身の葉の表面温度を下げる、自衛のための機構が備わっています。仮にそうした機構がなかった場合、葉は1秒あたり12℃の割合で加熱され、1分以内に組織を構成するタンパク質が変性するのとあわせて組織自体が死滅するほどの温度に到達すると試算されています。
実際には冷却機構の存在によって葉の表面温度が周辺の空気の温度よりも5℃以上高くなることはないとされています。また日陰の葉と日向の葉での温度差はおおよそ2~3℃に収まります。しかしそうした葉の冷却機構も周囲の気温が高くなり過ぎれば十分な効果を持たなくなってきます。
特に最近のように外気温が30℃を大きく超えるような場合には、日陰にあるブドウの葉の表面温度でさえ光合成の効率が最大化する25~30℃という温度はもとより、光合成の効率が大きく低下するとされている35℃以上にまで容易に到達する可能性が高くなります。高すぎる気温が樹全体の光合成を抑制し、ひいてはブドウの成熟を阻害する可能性があるのです。
ブドウの熟度は上がるのか
気候変動に伴う気温の上昇は、世界中のいくつかの生産地域にとって現時点ではポジティブに影響しています。こうした影響を受けた結果、スウェーデンやオランダ、イギリスなどこれまではワイン用ブドウの栽培がほとんど行われてこなかった国や地域でもワイン用ブドウの栽培が活発化しはじめています。一方で従来からワイン用のブドウ栽培が行われてきた地域ではブドウの果汁糖度が上がる一方で、酸落ちと呼ばれる現象が問題視されるようになってきてもいます。気候変動がもたらした明確な負の影響です。
これらの事象はいずれも気温の上昇を背景としたブドウの熟度の向上によるものです。世界的に得られるブドウの熟度が高くなったために、これまで熟度が足りなかった地域ではそれが適正値に到達するようになった一方で、これまで熟度が適正値にあった地域ではそれが過剰な域に押し上げられてしまったのです。
こうした状況は今後、さらに変わっていく可能性があります。現在は適正から過剰の範囲にある熟度が過剰から不足の領域に移行していく可能性があるのです。
気温の上昇はある程度のところまでは植物の生長を促進させ、光合成を最大化させ果実の熟度を高めるポジティブな影響を及ぼします。一方で過剰な高温は植物の光合成を抑制することに繋がります。仮にそのような環境にブドウが置かれた場合、ブドウの熟度はむしろ下がる可能性が出てきます。
長期的には気温の上昇はワイン用ブドウ栽培に不利になる可能性が高いという現実
光合成への影響の程度は気温だけでは決まりません。ブドウ品種、光強度、ブドウの発達状況など複数の要因が関係しています。しかしそうした中においても、高すぎる気温がブドウの熟度のばらつきの原因となり、場合によっては熟成の遅延を招く可能性があることはすでに確認されています。気温の上昇が現在は比較的ポジティブに受け止められている地域においても今後、このまま気温の上昇が進んだ場合には状況が一転し、ネガティブな要素が強くなる可能性は否定できませんし、そうなる可能性は決して低くはありません。
気温が過剰に高くなり、光合成が抑制された結果ブドウの熟成が遅れるようになった場合に想定される状況はワイン造りにおいてかなり深刻です。同じ果実の熟度不足であっても、低温環境下で生じるそれとは状況はまったく異なります。
光合成が抑制される状況下ではブドウの糖度は上がらなくなります。これは低温環境下でも高温環境下でも変わりません。一方で酸の分解は光合成とは無関係に進みます。最近の酸落ちの問題からもわかる通り、酸の分解は高温環境下でより進行しやすくなります。現時点では酸量が減少する一方で光合成が過剰に抑制されているわけではないため果汁糖度も上がっています。酸落ちという問題の本質は、酸量と糖量、両者のバランスにあります。
ところが進みすぎた高温環境下では酸が減るタイミングや速度がより早くなる一方で、光合成が強く抑制される傾向となり糖の蓄積が悪くなることが予想されます。つまりある時点においては酸と糖の両方が共に含まれなくなってしまったり、極端なまでにどちらかしか含まれていないという状況に陥る可能性が高くなります。そうなってしまえば酸と糖のどちらもない、もしくはどちらかしかないという状態になるため、両者のバランスという問題ではなくなります。
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ワイン造りの現場は介入が前提となるのか
現時点においてもワイン造りの現場では補糖や補酸といった手段は使われています。一方でこれらの手法はあくまでもわずかな不足を補うために行われるものであり、味や香りに対する影響の範囲は比較的小さく抑えられています。しかしその範囲での実施でさえ時に手法による影響がワインに出過ぎてしまうことがあります。だからこそ造り手は余計な介入を可能な限り避けようとします。そんななかにおいて、気温上昇にともなう果汁品質の変化はこうした醸造手法の活用を否が応でもより大きな範囲へと拡大させかねない重大な要因です。
現在のワインシーンはナチュラルが1つの大きなキーワードとなっています。醸造面でも人的介入は最小限にとどめるのが良いとされ、多くの造り手がそのようなワイン造りを試行しています。一方で現在おかれている地球環境はそうしたワイン造りを許容しない方向に動いています。このままいけば、ワイン造りにおける人的介入はむしろ必須となる可能性が高くなります。
ナチュラルを志向する造り手はよく、地球環境を守るためにこそこの手法が必要だと言います。地球環境の保全は重要なことですが、冷静にワイン造りを考えた場合、そうした主張はいったん横に置く必要が出てくるかもしれません。現在の状況を見る限り、環境の改善よりも先に環境への対応が求められるようになる可能性はかなり高いと予想できるからです。
酸がない、糖がない、もしくはそのどちらもない。そんな果汁をそのまま使っていては品質の高いワインは造れません。仮にそのような果汁を使って不介入のままワインを造ったとしても飲まれないまま廃棄することになりかねません。それではいくら環境に良いワイン造りをしていても本末転倒です。
上がっていく気温を止める努力はもちろん必要です。しかしその一方で、すでに上がってしまった気温やこれからさらに上がっていくであろう気温がもたらす結果へ対応していくことも同じく必要です。そうしたなかにおいて、造り手も飲み手もなにを考え、何を選ぶ必要があるのか。今のうちから考えておく必要があるのかもしれません。
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